踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

佐藤哲也『妻の帝国』

妻の帝国 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

妻の帝国 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

 

読み終えて思った。浅学非才な身なのでこんなことを書くのも気が引けるのだが、この書物の中には様々な二十世紀の全体主義とその末路が形を変えて詰まっている。ナチズムやスターリニズムが、言い方を変えればアウシュヴィッツや、更にはポル・ポトが生み出したキリング・フィールドまでもが詰まっている(私の歴史に関する知識はかなり偏りがあるので、もっと詳しい方ならこれ以上の全体主義ホロコーストの世界を本書から読み取られるに相違あるまい)。本書のあとがきでは佐藤哲也氏はジョージ・オーウェル『一九八四年』を念頭に置いて本書を書かれたというが、私自身はこれもまた恥ずかしいことに未だに『一九八四年』を読んでいない。これは早速読まなくてはと思った次第である。

ではそんな本書の内容はどんなものなのか。スジ自体は珍妙なものである。主人公「わたし」が不由子という女性と結婚する。彼女は実は「最高指導者」として常に誰かに宛てて手紙を書き続けていた。その手紙は郵送され誰かに依って読まれる。その手紙を受け取った人物は「民衆意志」に目覚めて彼女の配下となる。不由子はひたすら家に篭って手紙を書き続け、手紙を受け取ったひとりの高校生無道大義(なんてネーミングだ!)が「最高指導者」の指令を待つようになる。彼同様に「民衆意志」に目覚めた人々はある日クーデターを起こす。無道大義が国を乗っ取り一人の兵士として忠実に勤務する姿が描かれ、「わたし」が破壊された日常を妻とともに暮らす過程が淡々と綴られる。そんなストーリーである。

なるほど、と思われるかもしれない。ではその「民衆意志」とはどういうものなのか説明して貰えないだろうか、と。小説の中に記述があるはずではないか……それにお答えしたいのだが、実はここからが更に珍妙になって来る。ここからネタを少しずつ割って行くと、読んでも読んでもその「民衆意志」がなんなのか、さっぱり分からないのである! 「そんなバカな」と思われるかもしれない。「なにか説得力のあるイデオロギーに依って人物が動くのではないか」と。だがそうではないのだ。むしろどんなイデオロギーをも否定してしまう、敢えてこんな言い方をすると「空気嫁」な圧力が人々を支配するのである。そんな珍妙な設定にしかし不思議と説得力を持たせるのが佐藤哲也氏の底力なのだ。

空気嫁」……だから本書は逆に言えばどんな全体主義を代入しても読める代物に仕上がっている。ナチズムやスターリニズム社会主義から共産主義まで。あるいは日本を覆っている「空気嫁」な同調圧力もまた例外ではない。本書にはそんな、個人が本書の用語を借りれば「個別分子」としての自己を捨てて「民衆意志」と呼ばれるもの、それがなんなのかは分からないのだけれど取り敢えず従っておけ(「民衆意志」に忠実なら分からないはずがない)という命令に依って動く世界を描き出している。バカバカしいと一蹴出来るだろうか? だが、本書を読み終えたあと、まさに「見て来たように」日常の崩壊と破綻した秩序を生きる「わたし」の体験談を読んだあとでは私は嗤えない。

私たちはむろん個人の自由意志を尊重された状態で生きている。私がなにを考えようがそれ自体は自由、というわけだ。だが、これほど脆いものもあるまい。難しい話ではない。パソコンにウィルス対策ソフトを入れておかないとその脆弱性を突かれてしまうように、あらゆるイデオロギーが遍く広まる世の中では危険な排他主義や優生思想といった危険なイデオロギーが誰かを洗脳する恐れがある。いや、むろんそれに染まること自体はその人の自由なのだが、彼/彼女が他人の生存権を著しく侵害する恐れがある。人権まで否定しかねない。その末路がどんな悲劇を産んだかを学んだのが二十世紀ではなかっただろうか。

だが、本書にはそんな人権を嫌々差し出す人々やあるいはむしろ喜んで差し出す人々の姿までもが描かれている。二十世紀の日本で多くの若者が天皇のためにその生命を投げ出した過去を振り返ってみれば良い。大義や理想のためならどんなものでも差し出す……誰とも謁見しないでひたすら指令を書き続ける不由子の姿はおよそ「最高指導者」らしくない。平々凡々たるひとりの妻である。だからこそ、その世界の崩壊のダイナミズムと妻の凡人ぶりのギャップが際立って来る。「わたし」がそんな妻の指令をなんら食い止めようとしないで(するとしたらせいぜい、切手代が問題だとかその程度だ)日常の破滅を受け容れて従順に生きるその姿勢も不条理そのものだ。

振り返ってネットを見てみればどうか。人々は自由に物を言える権利を獲得したかのように考えられる。だが、人々は本当に「個別分子」として生きているだろうか? ネット上でも「空気嫁」の同調圧力が強い(むろん、それに対する「逆張り」も行われているわけだが)。個人が個人の言葉を失ってなんらかの大義に身を委ねて、相手をレッテル貼りし盛んに罵り合う。そんな世の中で本書を読むと良質なホラー小説にも似た怖さ、あるいはどす黒いユーモアが感じられるから不思議だ。個人が「個別分子」であることを失いワケの分からない「民衆意志」に身を差し出して「帝国」を築き上げる……それをむしろ自ら理想と見做して進んで行っているのが現代、とは考えられないだろうか。

ではどうすれば良いのか。それを考えた時に、書店を営む無道大義と、彼に敵対する「個別分子」である老教師に依る以下のような問答が「本読み」である私にはグッと来るのである。

「君の家は本屋ですね?」
「そうです」
「ここへ来る前に店の方に寄ってみました。本はどうなりましたか?」
「まだ、中にあります」
「焼いてしまいなさい」
「なぜですか?」
「君たちには不要なものだからです」