踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

スワヴォーミル・ムロージェク『鰐の涙』

鰐の涙―ムロージェク短篇集

鰐の涙―ムロージェク短篇集

 

スワヴォーミル・ムロージェクという書き手の存在も、不勉強にして知らなかった。今ステファン・グラビンスキ『狂気の巡礼』を少しずつ読んでいるところなのだけれど、典雅な日本語で翻訳しておられる芝田文乃氏がこのムロージェク『鰐の涙』を訳しておられるとのことなのでそれなら読んでみるのも一興か……と思って読んでみたのだった。著者はポーランドを代表する風刺作家であるらしい。ポーランドの置かれた歴史などというものに関して無知なまま読んでしまったのだけれど、それでもなおこの短編集は面白いと感じられた。だがそれを言葉にするのは非常に難しい。ともあれやってみよう。本書には 1990 年から 1993 年まで書かれた短編集やコミックが収められている。

ポーランドのこの時代は社会主義共産主義政権が崩壊し、民主主義に基づいた政権が根づいた歴史でもある。急激に到来した民主主義と言うものに対して国民が戸惑っている様子が伝わって来る。そんな時代の風刺を私たちはむろん、古き良き時代の寓話として読むことも出来る。そんな時代もあったのだな……と。でも、少なくとも私は読みながらこの風刺を笑うに笑えなかったこともまた確かだった。それくらいムロージェクの風刺がキツいからでもあるのだけれど、それだけではない。ムロージェクが炙り出す「民主主義」や「資本主義」に関する風刺は、それらが危機に瀕している今の日本でも十分にアクチュアルなものとして響くのではないかと思ったからだ。

二十世紀の歴史は共産主義が失敗だったこと、そして民主主義が正解であったこと、なにはともあれ資本主義が覇権を握ったことを確認する歴史だった。私たちも民主主義が取り敢えず守られている日本で生きている。だが、平和憲法が書き換えられ様々な法案が強行採決されている現在、民主主義の意義が見直されている。本当に民主主義は正解だったのだろうか……そんな問いが離れない今の日本で読むとムロージェクの淡々とした筆致から成る、長くても三ページくらいしかないショートショートの数々がリアルに響いて来るから不思議だ。政情が不安定な現在の日本は、そのまま不安定な当時のポーランドの空気と重なるものがあるのではないか。民主主義や資本主義は本当に有難いものだったのだろうか? そんな問いを頭の片隅に置いて読むのも一興だろう。

資本論』は実は資本主義について書かれている本なのに誰も読もうとしない、という旨の言葉を何処かで読んだことがある。それに倣って言えば、『鰐の涙』は共産主義の崩壊をとことん嘲笑した本であると同時に、突如として現れた馴染みのない民主主義という座りの悪いものをも笑い飛ばした本である。だから本書は古き良き時代の冗談なんかではない。資本主義や民主主義について知りたい時は、本書を読めばそれがどれだけ人々を振り回す危険なシロモノであるかが理解されるはずだ。リーダーを持たず総員の合意で物事を決断して行く民主主義がもたらす陥穽……美味しい食べ物が揃っていたとしても欲しいのはまずなによりも「幸せ」だという心理。これは今の日本でも通じるものではないだろうか。

むろん、こんな堅苦しいことを考えずともムロージェクのジョークは面白い。ポーランド情勢について無知なまま読んだのだけれど、お役所仕事の窮屈さや突如として披露されるウィット、単にオチの素晴らしいショートショートに至るまで様々なものが収められている。ヘタウマな漫画も素敵だ。「質問派はもうたくさんだ!」「どうして?」……こういう問答にピンと来る方なら本書を楽しめるのではないかと思う。と同時に、このような風刺作家を生み出せるポーランドの「民度」(大嫌いな言葉なので、あまり使いたくないのだけれど)の高さについて思いを馳せてしまうのである。今やスマホで風景を撮影していただけで吊るし上げに遭わざるを得ない窮屈な日本で、このような風刺は可能だろうか?

今の日本はギスギスしている。左右を見渡しても下品なヘイトスピーチやあるいは品性を欠いた揶揄や罵倒に満ち溢れている。そんな中でムロージェクのような作家が日本に居るか? と考えるとなかなか難しい。状況を冷静に切り取って、それを「風刺」した作家……言論の自由さえ弾圧されかねない時代で読むと、なかなかそんな作家を持つことが稀有なように思われるのである。混迷を極めている現在において東欧のこうした文学を読むことの意義について考えさせられる。ポーランドもまた混乱した国際情勢を生き抜いた国であったからだ。正義とされている民主主義や資本主義に胡座をかいていないで、本書を読み今一度それらに関して真価を問い直すこと……それは有益であるはずだ。

今後の日本は荒れるだろう。予断を許さない北朝鮮をめぐる情勢、アメリカの覇権、中国との関係、そして低迷する――景気は良いらしいが――日本の経済情勢。出口なんて何処にも見えない状態で、カミュの『ペスト』のようにやるべきことをただひたすらこなすしかない。そんな中東欧の作家のタフネスに触れることはまた新たな喜びを感じさせられる。今回も身を削るような読書となってしまった。良いのか悪いのか……私語りもあまり喜ばれないと思うのでこのあたりにしておこう。芝田文乃氏繋がりでまた重要な作家を知ってしまった。ハルムスやハシェクと同様に、このムロージェクという作家もなかなか侮れない。