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踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

エステルハージ・ペーテル『ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし』

ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし―ドナウを下って (東欧の想像力 3)

ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし―ドナウを下って (東欧の想像力 3)

 

エステルハージ・ペーテルの小説を読むのも不勉強にしてこれが初めてとなるのだが、読んでいて果たしてこれは「小説」なのかどうか……と首を傾げざるを得なかった。もっと言えば本書は「小説」というよりドナウ川をテーマにした旅行記としても読めるし、エッセイとしても読めるし、メタフィクションとしても読める……と書いてもこの駄文の読者の方には「なんのこっちゃ」だろう。ひと口で言えばとても変な本だとしか言いようがない。この本は安直なカテゴライズを拒むような妙にユーモラスな、読んでいて目を白黒させられざるを得ない本なのだけれど、しかし面白い。ただ、この面白さは確実に人を選ぶだろう。むろん、面白く読んだからと言ってもその読者が「優れた」読者ではあり得ないことは言うまでもないことなのだが――。

一応は最初は虚構の体裁を整えて語られる。「僕」という少年が「ロナウド」という大人と一緒にドナウ川を南下する珍道中のパートと、「私」という人物が電信でやはりドナウ川を下る旅行の過程を報告するというふたつのパートが入り乱れる。この両者を繋ぐのはたったひとつだけ。同じドナウ川を下って――それは即ち東方へと足を運ぶことを意味するのだが――旅行をするというだけのもの。普通の小説ならこの「僕」と「私」を絡ませるだろう。しかしそうはならない。「僕」と「私」の旅行記は独立したまま流れて行くことになる。そこに「旅人」という三人称の視点からの断片が入り、やがて著者らしき人物が表に出てきて小説を書くことに対する自己言及を行うことになる。「なんのこっちゃ」という意味がお分かりいただけたのではないかと思う。

つまり、この小説に従来の小説のような「スジ」を求めてはいけないのだ。そんなことをしても空振りに終わるだろう。「スジ」……つまりロード・ムーヴィーのように少年が成長して行くストーリーとして本書を読めば全然面白くない。そんなことは描かれないからだ。本書で印象に残るのはドナウ川をめぐる、あるいは彼らが旅するウィーンやブダペストをめぐる都市に対する大量の薀蓄なのだ。イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』を大胆にサンプリングしたあたりは圧巻とでも言うべきだろうか。恥ずかしながら『見えない都市』は未読なのでこの機会に読んでみたいと思った次第である。その他にも本書では数々の文学作品のサンプリングが見られる(例えばミラン・クンデラなど……)。

そんなものの何処が面白いんだ、と思われるだろう。私自身読んでいて、先が全く読めないストーリー展開(古き良き時代の言葉を使えば「ポストモダン」な展開)に手を焼いたことを告白しておく。だが、著者の語り口は珍妙無類で縦横無尽に文体を変えて様々な薀蓄や旅行記を記す。その過程が面白く感じられるのだ。正直なにが書かれているのかワケが分からず、最初は真面目に「旅行記」として読んでいたが著者の狙いがそんなところにはないと悟ってからはドナウ川をめぐる随想や妄想が(失礼!)ずらずらと並べられたものとして読むことになってしまった。早稲田みか氏に依るリーダビリティの高い文体もあってか、柔軟にスラスラと読めたことを告白しておこう。

ドナウ川を下ることは東方へと移動することを意味する。秩序の保たれていた西欧から中欧へ、やがて荒廃した東欧へと……著者はハンガリーを代表する作家だというが、ハンガリー人気質に対するこれでもかと言うほど自虐的な言葉も並べ立てられる。激変する東欧情勢が語られ、自由化をめぐって争われる革命や政治活動の嵐が吹き荒れ、社会主義共産主義の失敗から荒涼としてしまった貧困化も著しい世界へと読者は誘われる。ここに来て、序盤の甘美なノスタルジーを漂わせていた筆は一変して東中欧の過酷な現実を描くそれに取って代わられる。同じ本の中で書かれているとは思えないほどタッチが異なってしまうのだ。

本書は東欧でなければ生まれなかった書物だろう、とは思う。吹き荒れる激しい政治的な嵐の中で揉まれた著者の体験が色濃く残っている作品であるだろう、とも。ハンガリー共産主義体制の中で生きなければならなかったエステルハージ・ペーテル私的体験が色濃く焼きついた書物である、と。その意味で極めてパーソナルな、悪く言えば彼の中で閉じた――ハンガリー人、あるいは東欧の人物だけに宛てて書かれた「閉じた」――書物なのだろうと思う。しかし、それがこんな極東の読者をも興味深く惹きつけるのだ。それは本書がひとえにユーモアを失っていないことに由来するのだろう。「である」と「ございます」という多様な文体を使い分けて、ストーリーは軽妙に語られる。

ポストモダン……そんな言葉を持ち出してしまうと私の側の不勉強がますます露呈するのでそんな側面からは語れないが、ともあれ東欧のローカル色の強い作品が、逆にローカル色が強過ぎるが故にユニークなものとして浮かび上がって来る。東欧の激変期を知っている読者の方、例えばチャウシェスク政権の瓦解などを知っている方にしてみれば本書は面白いかもしれない。それ以外の方に本書を薦めるのは気が引ける。兎に角ワケが分からない。なにかを評価するのになにかを貶めるような褒め方はしたくないのだが、それでも本書を読めば巷に溢れている「実験小説」が顔負けに感じられてしまうほどアヴァンギャルドな一冊として私には映る。万人にお薦めは出来ない。だが、東中欧文学に興味を持つ方ならチャレンジしてみても損はない一冊ではないかと思われる。