踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

ダニロ・キシュ『死者の百科事典』

死者の百科事典 (海外文学セレクション)

死者の百科事典 (海外文学セレクション)

 

十数年前だったか二十年ほど前だったか、私は私を産む前の母親の写真を見たことがある。私は言うまでもなく私が生まれたあとの母親の姿しか見たことがなかったので、私が生まれる前にも母親が存在していたということを事実としては把握していてもピンと来なかった。だから、その写真を見た時は驚いた。私が生まれる前にも歴史があり、私が死んだあとにも世界が残る……そんな当たり前のことに私は気づいていなかったのだ。頭では認識していても、実感は出来ていなかったということになるだろう。ダニロ・キシュ『死者の百科事典』を読んでいて思い出させられたのは、そのようなことだった。自分が生まれる前の過去の世界について……そんなことを考えたのだ。

ダニロ・キシュという作家の書物を読むのもこれが初めてとなる。不勉強にして『庭、灰』や『若き日の哀しみ』も読めていなかったのだけれど、なかなか手こずってしまった。難解な書物だという印象を抱いたのだ。悪訳というわけではない。山崎佳代子氏に依る訳はリーダビリティに溢れていて読みやすい。だからあとは私と著者との相性の問題ということになるのだろう、本書では信仰をテーマにした作品が数多く並べられている。奇蹟を起こす人物が登場し、幻想的な光景を見せる。あるいは一冊の本を記す。そういう「信仰」が私にはピンと来なかったのだろうと思う。私の話をすれば、私は浄土真宗の教えの根づいた場所で生まれ育ったのでキリスト教の信仰――キリスト教と言っても色々あるだろうが――については無知なのだった。

それに加えて、本書では先にも少し述べたが「書物」がテーマとなる。表題作の「死者の百科事典」では一冊の本の中に主人公の父親の人生が記された稀有な書物が登場する。こういう設定なら言うまでもなくホルヘ・ルイス・ボルヘスが見事な達成を示している。ボルヘスと比べるとエレガントさにおいてはやや見劣りがするかなという印象は抱くけれど、しかしボルヘスにはさほど(あくまで「さほど」)感じられない叙情性が際立って来るような作品として成立しているのではないかと思われる。読んでいて私自身のノスタルジーをくすぐられてしまったのも確かだった。だから冒頭で述べたような私自身の記憶を辿る試みをしてしまったわけである。

作風も文体も全く異なる九つの短編を乱暴に括ることは出来ない。ここで私の読者としての限界が露呈してしまう。偽書をテーマにした「王と愚者の書」などは読み応えがあり、偽史を描き切るその巧みな筆致に魅入られてしまったことを告白しておく。ユーゴスラビアで生まれ、ファシズムの嵐の吹き荒れる中生き延びて作家として活動して来た彼の作品の中にはそうした過酷な状況をサヴァイヴして来たタフネスが満ち満ちている。東欧文学を読む時にいつも思ってしまうのは彼の地の人々のタフネスなのだけれど、それはこの作品集にも共通しているように思われる。過酷なファシズムや戦争から逃げない、骨太な姿勢が信頼出来るように思われるのだ。

正直なところ、読んでいてスジが記憶に残るような本だったかというとそうでもない。どんなスジの内容の短編が収められているかと訊かれるとそのあたりちゃんと答えられない。そんな頼りない読書となってしまった。ただ、ぼんやりとしたショットだけは覚えている。奇蹟を起こす人々の姿、父親の人生を追い掛ける子どもの影、偽書の中に凝縮された人生……これら以上のことについてはダニロ・キシュの他の作品を読んでから語るべき事柄なのだろう。だから語れそうにない。ただ、読んでいて苦痛かというとそんなことはなかった。翻訳の読みやすさについては既に語った。そうしたぼんやりとしたショットが残ったというだけで、著者としては満足なのではないか。こう書けば叱られるだろうか。

これ以上語れることというのもないのだった。戯れにページを繰ってみる。偽書を暑かったメタフィクションとしての仕掛けや、伝聞から成り立つ作品……どれも記憶がベースとなっていることに気づかされる。なにを伝え聞いてそれをどう語るか。それはそのまま、悲惨なホロコーストを伝え聞かせて次の世代に受け継ぐ人々の語りにも似ているように感じられる。ダニロ・キシュのような作家にとって、政治的混沌を生き抜いて来た人々にとって生々しい記憶はジャーナリスティックに情報として切り離せない事柄なのだったのだろうと思わせられる。そういう背景を踏まえて読み直せばまた違って来るのかもしれない。これは是非『若き日の哀しみ』に挑みたいと思ってしまった。

ダニロ・キシュ。また侮れない作家を知ってしまったものだと思わされた。私自身深く考えて本書を手に取ったというわけではない。東欧文学に関心を持っていた時に彼の名を知り、手っ取り早く読めそうな本書を手にしてみたのだけれどなかなか巧く行かなかったことは前述した通りだ。私自身の不勉強を痛感させられながら、しかしややもするとボルヘス的な衒学的な手つきに淫してしまう危険性から敢えて己を切り離し良質の叙情を際立たせる彼の手つきに魅了されながら、私は本書を読み終えた。東欧の文学に触れると、いつも私は彼の地の人々のタフネスを思い知らされる。今回もまたそんな読書となってしまった。