読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

町田康『夫婦茶碗』

夫婦茶碗 (新潮文庫)

夫婦茶碗 (新潮文庫)

 

活字が相変わらず頭に入らない状況が続いているので、マチダのこの本もさほど期待しないで手にしたのだった。ところが、これがすこぶる面白い。表題作と「人間の屑」という二作が収められたこの一冊を、しかし何処から語ったら良いのだろうか。ひとつだけ言えることは、マチダの本を読むと何処か元気が出て来る、ということだ。それは言わばカラ元気のようなものかもしれない。別段ダメな私自身が啓蒙されて立派になれるとかそういう話にはならない。あくまでカラ元気だ。ただ、読んでいると「人生、意外と(マチダの小説のように)なんとかなるんかなあ」と思わされてしまうから不思議なのである。マチダの世界にはまだ入って間がないのだけれど、もっとこの作家の世界を知りたくなってしまった。

それにしても、と思わされるのだった。ここまでデタラメで良いのだろうか、と。饂飩を啜るようにしてマチダのこの二作を読んでしまったのだけれど、スジを説明せよと言われれば非常に難しい。基本的にはビンボーな男が主人公で、その男に妙に都合の良いように寄り添う女性(妻や恋人)が居て、一念発起して商売をしようと悪戦苦闘する……というのがこの二作の共通項となる。しかも「人間の屑」の場合、その商売は当たってしまうのだ。餃子売りに身をやつしていた男、バンドマンとして持て囃されて落ちるところまで落ちた男が商売を始めると大当たりしてしまい……と都合良く話は進む。そんなご都合主義ありかよ!? と思わせられる話なのだけれど、マチダの筆はそんな有無を言わせない説得力がある。

トーリーはジェットコースター的に進んで行く。次々とテンポ良く話は進んで行く。だから読んでいて中弛みするということはない。勢いで読ませる作品なのだ。そして、私たちはこのマチダの小説をバッドトリップのように味わうことになる。読めば読むほどなにがなんやらワケが分からない世界の中に入り込んでしまい、人は呆気なく死ぬし(マチダの詩や小説を読んでいても思うのだけれど、本当にマチダの世界では人は呆気なく暴力を振るい殺される)、女性は妙に色っぽくこちらに迫って来る。エロティックな描写があるというわけではない。むしろ「描写」自体は乏しいと言っても良い。膨らみが良くも悪くもないのだ。そこが評価の割れ目だろう。

あと、先ほどから繰り返し書いているが女性が妙に男に都合が良いように描かれているところも気に掛かる。男たちは、マチダの言葉を借りれば社会的には「人間の屑」と見做されるような人々だ。定職に就かずその日暮らしでなんとか凌ぎ、なにをやるにも能力も天才性も持ち合わせていない。才能がない。努力もしない。怠惰な人間たち……しかしそんな甲斐性のない男たちに妻が、あるいは恋人が何故か貞淑に(あるいは熱愛を抱いて)従うのである。このあたり、フェミニズムに関して敏感な女性たちがどう読むのか? そのあたりも気になる。そうした視点からマチダを批判した論客を私は不勉強にして知らない。ここは是非そういった視点からの批評を読んでみたいところだ。

カラ元気が出て来る、と書いた。それはつまり「人生なるようになる」という諦観をこちらに抱かせるということでもある。自分の努力が巧く報われるとは限らない。むしろ努力が報われないことの方が多い。夢だってそんなに簡単に叶わないし、前向きに意識を高く保ち続けていたとしても良いことなんてなにもない……だけれども、ひょんなことから始めたことが実は大当たりしたりあるいは夫婦が復縁に至ったりということだってあり得るのである。人知を超えたところで運命は動く……そんなことをマチダは教えてくれるのだ。苦悩している時にマチダを読むのはその意味では良いことなのかもしれない。なにかしら悟れるところがあるからだ。

パンクロッカー、役者、そして作家。八面六臂の活躍を見せるマチダの頭の中はどうなっているのだろうか? この人は一体なにを考えて生きているのか? どんな半生を送って来たのか? 筒井康隆氏からの影響が大きいところは本人も認めていることだが(ちなみに本書の解説も筒井氏が手掛けている)、筒井氏のスラップスティックな感覚に日本文学のオールドスクールな作品群の素材を放り込んでちゃんぽんにしたらこんな世界が出来上がるということなのかもしれない。エンターテイメント性も備えていて、言語感覚も卓越していて(例えば又吉直樹『火花』の中に、マチダの作品の言語感覚の残響を聴き取ることは出来ないだろうか?)、読み終えて自分の人生の悩みが小さいもののように思わされてしまった。凄まじい作品だ。

だから、余計に本書で女性の描かれ方が問題になるのではないかな……と(あるいは『くっすん大黒』もそうだったが)考えてしまうのである。女性を罵倒したり強姦したりという描写はないのだけれど、女性が男にとって都合が良過ぎる。ここに鋭敏なフェミニストは反応してもおかしくないのではないか、あるいは端的に「女性」の読者は嫌な匂いを嗅ぎつけてもおかしくないのではないか……と、祖雨思ってしまうのだ。私自身は別に本書を読んでマチダのアンチになったとかそんなわけでもないので未読の『告白』や『宿屋めぐり』などに挑んで行こうと思っているのだけれど、何故マチダが女性からも受け容れられるのか? それもマチダの色気が成せる技なのか。不思議な話だ。