踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

笙野頼子『なにもしてない』

なにもしてない (講談社文庫)

なにもしてない (講談社文庫)

 

何かしていなくてはならない。それも生産的なことである何かを。そして何者かであらねばならない。日々を無為に過ごすことは許されない。非生産的であってはならない。……有形無形の圧力がこのような形で日々圧し掛かってくる。そこから逃れることは出来ない。少なくとも逃れてしまっては日常生活を営むことが出来ない。

ではどうしたらいいのか。なるべく何もせずに、「なにもしてない」状態を保ちながら生きていくためには。この場合「なにもしてない」ことはむしろ何かをせよという社会への暗黙の抵抗を孕んだスタンスということになるのだろう。具体的に言えばそれは働けという言葉への無言の抵抗であり、女であるのならば子を生めという言葉に対する反抗になる。

野間文芸新人賞を受賞したことで、デビュー以後十年を経過してからようやく刊行された記念すべき最初の作品集である『なにもしてない』はそうした作家の反抗宣言とでも言うべき書物として読むことが出来る。ストーリーとしてはうっかりすると「私小説」と言いたくなってしまうタイプのものだ(だが、後で触れるがこの作品に限らず一般論的に作品が安直に「私小説」と称されることに対しては笙野は厳しい批判を作中で行っていることに留意したい)。

時は昭和天皇即位式の前後。笙野自身と思しき作家がある日接触性湿疹をこじらせる。皮膚が弱いせいもあって手がぱんぱんに腫れ上がる。冷やさなければならないはずの湿疹を自己流の治療で温めていたせいで症状はさらに悪化する。手から腐臭がし始め汁がついてしまうのでものを触るにはポリ袋をはめなければならない。そんな中で主人公は妖精の幻覚を見る。耐えられなくなった主人公は医師のところに行き傷は治る。社会復帰が終わった主人公は自分の郷里である伊勢に帰る。途中で天皇の姿を目撃し、伊勢で、自分の母親と複雑な関係に悩まされる。

トーリーとしては本当に粗く紹介するとこんな風になってしまう。読み取るべき要素がそれだけ多々私の中から零れ落ちているという状態なのでそれは今後の作品を読み込んでいかなければならないのだろうけれど、母親、夢、あるいは無為に過ごすということを弾劾されること(まさに「なにもしてない」ことに対するプレッシャーが圧し掛かってくること)といった今後の笙野頼子のテーマがここで花開いていることも――もちろん同じ作家が書いているから当然のことなのだけれど――気になったのだったが、個人的にこの作品を読み解くキーワードとしては接触性湿疹というのがまず挙げられるのではないかと思った。

接触性湿疹。すなわち何かに触れることで過敏に反応してしまうということ。自分の外部を取り巻くものに対して、それが自分に直接向けられた敵意ではないとしてもただ「外部」にある「異物」であるということだけで否応なく反応しなければならないということ。これが、安直な読解になるけれど主人公の存在そのものというか、主人公の中に抱え込まれているある種の宿痾のメタファーなのではないかと。外部に対して常に過敏であり続けなければならない感受性は先にも書いた主人公の、批評家がやたらに物語を私小説として分析することへの批判としても現れているように読める。引用してみよう。

「文章に私と書けばそれは私と書いた板だったり、一人芝居の人間が自分の鼻を指している言葉だったり、或いは人間のヌイグルミを被ったゴジラの告白の主語だったり、私という名を与えられた一匹の人魚だったり、時には私というビニールパイプ製の漢字一文字を首に見立てて、アンドロイドの体にすげたものだったりする。その私をどうして一通りに論じ、場所を全部読み手の自身の家に設定してしまったりするのだろう」

この箇所を読んだ時は唸らされた。というのは明らかに笙野頼子という人はこうした問題設定をすることで、言葉が自明に通じてしまうことを信じていないことを明らかにしているからである。作品に「私」と書けばそれを作家自身のことだと了解してその裏事情まで忖度して理解出来ることがかつては良い読者の条件だった。その理解出来ることが作品を深いところまで読み込んでいること、文壇(?)の裏事情にまで通じた良く勉強している作家の証だったのだ。それを笙野は否定している。これはもう殆ど哲学の域にまで達していると言えるのではないだろうか。

言葉は必ずしも自明に伝わるものではない……だからそんな感性を持った作家にとって、自明に「なにもしてない」ことをその個人的な事情を全く考慮しない形で「悪」と見做して有形無形のプレッシャーを押し付けてくる世界が酷く暴力的で生き難い世界であることは間違いない。そんな外部から現れてくる暴力に己の身を否応なく晒し、その感じやすさをこそ武器として引き受けること。笙野頼子が『なにもしてない』で表現しているのは、そうした世界に対する毅然としたスタンスであるように感じられる。