踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

「中山坂」

眉雨 (福武文庫)

眉雨 (福武文庫)

 

古井由吉の作品集の中の『眉雨』から「中山坂」だけをひとまず再読した。ちなみに今手元にあるのは福武文庫版である。どういう経路からこの文庫本を買ったのかは分からない。本来なら『眉雨』全体を再読して……ということが必要なのだろうけれど、時間に余裕もないので「中山坂」だけを拾い読みしたのだった。

不思議な小説だと思った。というのは、私がこれまで固定観念に縛られ過ぎているせいか、基本的にはこの短編は登場する「女」が主人公となって(つまり三人称の視点から)語られるべき物語なのだけれど、カメラ・アイとして「女」を取り巻く「総武線は下総中山駅」の風景が最初に描写されるので、これは誰か主体を持つ語り手が居るのだなと思って読んでしまったのである。つまり「私」が居るのだ、と。古井由吉氏の作品で三人称で語られるものをさほど読んでいないので(『忿翁』なんかはそういう作品集ではないかと言われるかもしれないが、あいにく内容を覚えていない)、先入観がそうした読みの狂わせ方をさせるのかもしれない。

不思議なのは、この小説が基本的にはなんの変哲もない事柄を描いているということだ。「女」に「老人」がひょんなことからめぐり逢い、競馬場に使い走りにやらせて馬券を買わせる……という、それだけのスジの話だ。だが、この小説を読むとそうした「スジ」だけが小説ではないことが分かる。ひと口で言えばこの作品を取り巻くエロスが重要となって来るのだろう。

<濡れた路上に、花も木も近くに見えないのに、木犀の香が流れていた。夏が暑かったせいだか、秋の深まりが今年は早いのか、ほんのりと漂うなかに、ときおり鋭い、すえた香が鼻先を横切った。どうかして急に甘くなる、人の腋のにおいに似ていた。人から染まったものとも、自分の肌のものとも、つかなくなる>(p.181)

「人の腋のにおい」……肉体から匂い立つ香り。古井由吉氏に関しては私は良い読者とは言えない。むしろこれまである程度読むことは読んだのだけれど(前にも書いたけれど、未読の作品が多々あるのだけど)、読んだものも基本的には忘れているかどうかという体たらくなのである。私は忘れっぽいのだ。だから今回の読書(三度目)も、記憶に残っていなかった箇所を丁寧に洗い直すつもりで読み返すことになった。「老人」と「女」が「糠雨の中を、傘もささずに」歩いているそのふたりの歩行ぶりに年齢を超えたエロスを感じるのもあながち勇み足とは言えまい。

それだけなら「古井由吉作品は色っぽい」という紋切り型のフレーズで決められてしまいそうだ。だが、それはしかし直接セックスを描いているとか豊満な肉体の描写が施されているとかそういうポルノグラフィ的なものではない。性描写はない。しかし、だからこそなのか身体感覚に訴え掛けて来るような狂いを感じるのだ。何処となく一見弛緩したような「中山坂」は、身体感覚と「狂う」瞬間を巧く描き切っているのかもしれない。これについては藤沢周氏が『白髪の唄』文庫版に寄せていた見事な解説文を引用したいところだが、今手元にないので探してみて機会があれば参照することにする。又吉直樹氏も『杳子・妻隠』に寄せて見事な推薦文を書いていたのを思い出したりもしたのだった。「脳が揺れ比喩ではなく実際にめまいを感じました」と。同じことを私も「中山坂」に感じたのだ。

浅学の身なのでこれ以上のことは語れない。私の今回の読書が雑に過ぎたかもしれない。これは是非『眉雨』全体を読み返してみて、降り続ける雨の描写や老獪な男の姿、彼に振り回される女性の妙な色気について語れるようにならなければならないのかもしれない。やれやれ、自分はなかなかその意味では「読書家」とは言えないようだ。前にも書いたが『山躁賦』『仮往生伝試文』など、読めていないか読んだけれど読んだうちに入っていない読書も多々ある。「女」の身体に密着して坂を登る「老人」のエロスの迸りについて書こうと思えばもっと書けるはずだ。それが出来ないのが私の現段階だと思っていただきたい。

<「なに、さっきネエさんが鮨を喰っているのを、腋から眺めていて、そう感じたまでだよ」と老人は壮健な声になって答えた。「俺としても、あんたが男に身を投げだしていると、そう思ったほうが今夜は甘い気持で眠れるからな」>(p.202-203)