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踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

後藤明生『首塚の上のアドバルーン』

首塚の上のアドバルーン (講談社文芸文庫)

首塚の上のアドバルーン (講談社文芸文庫)

 

後藤明生の作品は何処が面白いのだろう、と考えるとそこでキーボードを叩く手が止まってしまう。不勉強にしてこの年齢で初めて『首塚の上のアドバルーン』を読んだのだけれど、読んでいて非常に面白い作品であったことは確かだ。だけれど、それが何故なのかを説明するのはひと苦労する。『首塚の上のアドバルーン』自体はスジらしいスジというものはない。マンションの十四階から語り手が遠景の中に丘を見つけ、それが首塚であるということを知るというものだ。その首塚をめぐる随想/連想はやがて『太平記』『平家物語』をめぐる壮大な「首」に関する考察へと辿り着くというもの……と書けば、大抵の方は「なんのこっちゃ?」と考えられるかもしれない。

本書は例えば、「日常の謎」を扱うミステリの脇に置くことは出来ないだろうか。もちろん本書では「謎」なんて大それたものはない。殺人も起こらないし、別段重大な事件が発生するというわけでもない。むしろ平穏無事な日常の些事が綴られると言っても良いくらいだ。サスペンス的な要素があるわけでもない。緊張感はないのだけれど、しかしそれでいて一見するとノンシャランとした何気なく書き流している筆致が、例えば先述した「首」をめぐる随想へと繋がり『太平記』や『平家物語』の「首」はなんだったのか……と「アミダクジ式」に繋がる。この思考の運ばれ方が例えば推理小説にも似た、馬加氏の首塚の正体とはなんなのかという「謎」(といった大それたものではないが)の解明へと至るのだ。その「謎」の正体についてはネタを割らないでおこう。

日常の些事から始まった出来事が(たまたま住み着いた場所から眺めた「首塚」の発見から)、どんどん異世界めいた領域へと迷宮に入って行くような不思議な感覚は私の乏しい読書歴を考えてみてもなかなか類例を示せない。圧倒的な読書量から読者を煙に巻くような不条理な世界へと導くやり方はホルヘ・ルイス・ボルヘスにも似ていないこともないが、しかしボルヘスのそれが如何にも衒学趣味をまぶした高踏的なものだったのに比べるとそんな高踏的なところはない。読者を良くも悪くも選ばないのだ。むしろ語り口は平明そのもので、こちらを引きずり込むその語り口の巧さは落語にも似ているように感じられる(落語に関しては無知なので、ここで「お里が知れる」のだが)。

私自身は怠惰な読者なのでその怠慢/不勉強が祟って、例えば『太平記』『平家物語』に関して書かれた箇所をきちんと読めたかというと自信がない。むしろ読み飛ばしている可能性が高い。しかしそれは読むのが面倒というわけではない。テクストが魅力的に書かれているので「その先」を読みたいという気持ちが勝ってしまい、読む手が止まらないのだった。「その先」は、つらつらと思考が連ねられる「先」にはなにが待っているのだろう? という期待。それがどのような結末を迎えるのかは先述したように書かないでおくが、馬加氏の首塚を巡って、いや「ピラミッドトーク」と呼ばれる時計を発端として語られる物語は見事に縦横無尽にトリップした随想を超えてその「ピラミッドトーク」のある光景へと辿り着く。

円環を成した構造……と書けば単純に過ぎようが、本書を読むことはその意味である種の旅/トリップを意味することになる。それこそ探偵小説のように主人公は行動し、首塚へとワトソン的編集者を連れて歩き、そこで不思議な光景を見ることになる。その不可思議な光景(日常が何処か違和感を伴った、「異化」されたもののように映るところも後藤明生の作品の特徴ではないか?)がもたらす「首」をめぐる推理にどう至るかは先に書いた通りだ。本書が行動と思索をベースにしたミステリ的構成というのはその意味である。アームチェア・ディテクティヴでもない限り探偵小説の探偵は行動するしかなく、そして事件現場で日常の中に非日常的なものを見出すという形で日常を「異化」してしまうからだ。

不勉強な読者なので後藤明生はこれまで『挟み撃ち』程度しか読んで来なかったのだけれど、『後藤明生コレクション』が面白かったので読んでみたら大当たりだったということが分かった。ただ、私自身の怠慢が大きいのだと思うが、読んだあとにこれだけの大仕掛けの為された小説を読んでなにかタメになるものを得られたかというと甚だ疑問である。結局は煙に巻かれただけなのではないか、壮大なホラ話をただただ笑いながら(後藤明生を顰め面をして読むというのはもったいないことだ)読んでしまったというのは良いことなのだろうか……そんなことを考えてしまう。従って古典を勉強したいとか、トリヴィアを得たいとかそういうことを期待して挑めば空振りに終わるだろう。引用ばかりが目立つ、従って小説の中に自在に古典がモザイクのように入り込むこの作品は世間で流通している「小説」とは程遠い代物だ。

だが、小説とは必ずしもなにかを得るためのものという目的で読まれるべきではないだろう。ネタ自体はナンセンスであっても、その語り口に酔わされて楽しまされる……まさに落語の世界ではないか。後藤明生を一流の落語家として捉えること。それは興味深い読みなのではないかと思うのだが、私にはあいにくそんな側面から語れるほどの教養はない。この後藤ワールド、これまで難解そうで敬遠して来てしまったのだけれど読んでみるとなかなかクセになる。時間を置いて読み返したらまた違う感想を抱いてしまっているのかもしれない。そんな期待をしながら、例えば古川日出男訳で出された『平家物語』を読もうかと思いつつ私は本書を数年後に読み返すことに決めた。そうすればもっと面白くなるだろう。いや、無知であっても充分に面白いのだけれど。