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踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

後藤明生『後藤明生コレクション 前期1』

これは一体なんなんだろう……読みながらずっとそんな問いが頭の中に残留して離れなかった。読みながら、何度もタイトルを参照し直す。タイトルはこうだ。「関係」「無名中尉の息子」「S温泉からの報告」……そういうタイトルから、恐らくこういう話なんだろうなと予想を立てながら読む。しかしその予定はことごとく外れる。ある出来事が綿密に綴られるかと思えば、その話題と辛うじて繋がる別の話題に移り、そしてその話題も綿密に語られる。それもしかしストーリー全体に奉仕するというよりは、ストーリーを食い破るというような過剰な膨らみ方をするという展開になるのだ。そして結果として現れたのは一体なにを書きたいのか分からないけれど、ワケが分からなくても読んでいて面白かったという充実感なのだった。これをしかし説明せよと言われても私には難しい。

後藤明生は「内向の世代」と呼ばれている。私は文学史に疎いので間違いがあるかもしれないが、政治的なトピックに関して直接そういった社会派的な問題を扱うのではなく、そういった事柄と一歩距離を置いたところからものを書いたという作家なのだということなのだろう。本書の解説文で渡部直己氏が「六八年の作家」という側面から後藤明生に着目して論じられているが、それほど本格的に論じられているというわけではない。本格的な後藤明生論は氏の著作を読むしかないのだろうからここでは割愛する。私もそういう側面から論じるというわけには行かないので、私なりの粗雑な論を語ることにしてお茶を濁すことにしよう。

読みながら連想したのが、例えばカフカベケット町田康といった作家だったと書くと頓珍漢に過ぎると一笑に付されるだろうか。ただ、カフカ後藤明生は似ている。カフカもまたどうでも良いことを綿密に描写する作家であり、なおかつスジは頓珍漢な方向に進ませる作家なのだった。何故そこでこんな展開になるのか分からない、だけれどワケが分からないなりに読ませる……ベケットを思い出したのは綿密にひとつの出来事が微に入り細に入り描かれるというところから来たのだろう(ベケットの散文はきちんと読み通したことがないので、読み通すことが肝要になって来るが)。町田康氏を思い出したのは筋立てのデタラメさに増して、語り口の軽妙さがそんな類似を思わせたのかもしれない。町田氏が後藤明生をどれだけ読んでいるか? これは興味が尽きないところである。

ともあれ、私自身後藤明生は不勉強にして小説は『挟み撃ち』しか読んでいないという体たらくなのだけれど『挟み撃ち』で展開されたような寄り道に寄り道を重ねていつしか本題が何処に行ってしまったのか分からないというような世界はここで既に萌芽を見せていると言える。だから読みながらかなり脳を使う作業となった。一編一編はそんなに長くないのだけれど、ストーリーがあっちこっちに飛び散ってなにを語っているのか分からなくなる。だからそれについて行くだけで精一杯ということになる。ついて行くだけで脳が草臥れる……だからついて行くのに骨が折れる。脳をかなり使う読書となってしまった。なかなかスラスラ読めなかったのである。それはそれで充実した読書体験だった。

後藤明生の本書に収められた小説群は基本的に団地でしがないサラリーマンが主人公となって、働けないか働くけれどバリバリ働くと行った猛烈ぶりを見せることもなく仕事をこなして(あるいは働けなくなって)無為に過ごすという人々(基本的には「関係」を除いて全員男)が現れる。後藤明生がこれらの作品を書いた時期は終身雇用制が基本だったことを思えば彼らのドロップアウトぶりは特筆に値すべきものではあっただろう。そんな人々の些事が、何度も繰り返すがさっきはあそこまで執拗に書かれていたかと思うと今度は別のことが執拗に書かれるという形で絶えずズレて語られて行く。その「ズレ」こそが後藤明生の面白さなのだと言いたいところだが、伝わるかどうか?

著者は「私小説のパロディ」という言葉で自作を説明しておられたという。考えてみればどの作品も、例外こそあれど語り手が自らがこの言葉をまさに書きつけているという「語り/騙り」に関して自覚的なのだ。書かれる傍から読まれるということを意識して、書いている自分自身の自意識が肥大していることを隠さない。従ってしがないサラリーマンの生活がこれでもかと言うほど「私小説」めいて語られる。ある場面が展開されたかといえば唐突に別の場面に移るところはまるで上質の落語を聞いているかのよう。落語もまた唐突な場面転換、「おい熊さんや……」という形でトントンと場面が切り替わって行くところが後藤明生の作品にそっくりなのであった。

加えて、後藤明生の登場人物たちはワケの分からない状況に投げ込まれたまま滑稽な行為をしでかす。それが極まるのが「ある戦いの記録」だろう。どんな話なのかスジを紹介しても面白くないだろうし逆に読む楽しみを半減させるだけだろうから考えないが、主人公が妄想を逞しくさせて隣室の女性に対ししストーカーじみた妄念を膨らませて奇矯な出来事に集中するというところは例えば藤枝静男の小説にも似ていて、かなりグロテスク。「私小説」もここまで変になったか……と思わされるほど渋くて変てこな作品と化しているのだ。このような小説を半世紀前(!)に残していたとは……と改めてその凄味を知ったように思った。ひと口で言えばシュールで笑える、落語のようでもあり不条理文学のようでもある……そんな作品集なのである。

奇妙な状況の中に巻き込まれて、トラブルを起こし悪夢を見て目が覚めて、そして胸の痛みに苦しんだり隣室の女性に対する思慕を募らせたり、流れ流れて着いた断食道場で働くということになった……そんな数々の主人公の語り手――全員語り手は一人称で語る――が、そんな奇妙な日常、不条理な夢のような現実から送られて来た報告書のように本書の小説を読むことは可能である。それはそして、「社会派」というイメージから一見すると遠いところに居るようでありながら、当時の風俗や文化を交えて、つまり政治的に肉迫したところで空気を描いていたという点で当時の空気を知るテクストとしてアクチュアルに読めるのである。しかも今読んでも古びない。後藤明生という作家を知らなかった人物にとって、いきなりこの前期作品集はハードルが高いかもしれない。しかし、読んでみてピンと来た方が居られたら読むのも一興ではないか、と思う。例えば藤枝静男町田康氏が読める人であるなら読めるのではないか、と思うのだ。私自身は『挟み撃ち』が入った第二巻を早速読んでいるところである。