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踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

佐藤哲也『ぬかるんでから』

ぬかるんでから (文春文庫)

ぬかるんでから (文春文庫)

 

困った……今回でこの佐藤哲也『ぬかるんでから』を読むのは二度目となる。一度目に読んだのは十年ほど前だったか。笙野頼子氏が推薦文を寄せているということと、当時は佐藤哲也氏がデビューの切っ掛けを掴んだ日本ファンタジーノベル大賞に興味を抱いていたということもあってなんということもなくふと手にしたのだった。その時に感じた期待を上回る面白さに読み終えたあとに興奮させられてしまったのだけれど、今回もやはりスリリングな読書体験をさせて貰ったと思わされた。しかし、何処からその感想を語れば良いというのだろう。考えあぐねているのだった。語りづらい、というのはつまりこちらの乏しい語彙を越えたところにこの作品があるということなのだろう。

佐藤哲也氏の著作も、不勉強にして私は『異国伝』と『妻の帝国』と『熱帯』しか読めていない。どれもすこぶる面白かったのだけれど、佐藤哲也氏の作品を大雑把に言ってしまえば「怖い」。そして「笑える」。シュールな要素とコメディの要素を両立させているのだ。超絶技巧、と言えば言えるだろうか。その強靭な筆力を生かし、豊富な語彙を繰り広げて奇抜な発想で途轍もなくぶっ飛んだ世界を描いている。この本自体は 2001 年に刊行されたものなのだけれど、今読んでもちっとも古びていない。これほどの短編集が埋もれているのは惜しいと思う(なお 2008 年には本書は一応文庫化されている)。あるいは佐藤氏の作品がさほど読まれないという事態こそが、憂慮すべきことではないかと思う。

合計 13 編の短編を収めたこの作品集は、そんな佐藤氏にしか書けない世界なのではないかと思う。また不勉強を棚に上げて言えば、海外のシュールな発想の持ち味で勝負する作家たち(私の知っている範囲では例えばマヌエル・ゴンザレスなど)に決して引けを取っていないのではないか、と。例えば街が泥に呑まれてしまい生き残りを賭けて足掻く人々の前に亡者が姿を現すという表題作を読んでみよう。そこでは神話的とも言えるスケールの大きな世界、ダイナミックな語り口がしかし「妻」が救い主となるという展開で脱臼される。「妻」はこの短編集で何度も登場するのだが、神話的な世界、神秘的な世界をより強烈に印象に残すものとして脱臼させる役割を担っている。

敢えてネタを割るが、本書はそうした神話的な(というより、具体的な細部を欠いた何処か寓話的な)世界が展開される。意味を求めては行けない。「妻」と春を探しに行って自衛隊の静止を潜り抜けて湖に行くという話、家に帰ったら「妻」がトカゲになっていたという話、キリギリスがチェーンソーで襲い掛かって来たという話……ネタを割ったら物語を読む面白さが半減(いや、「全滅」?)するではないか! と立腹されるかもしれない。しかしそんな佐藤氏の短編はヤワなものではない。読んでみればお分かりになるが、その的確にして意表を突いた構成や語り口の巧さで持って行く。だから二度目の読書も楽しめたのだった。

二度目に読んで思ったのは、この短編集には「妻」も然ることながら「猿」やさっき書いた「きりぎりす」など動物も多々現れるということだ。それらの動物もやはり生々しい佇まいというか匂い立つ存在感を以ってこちらに迫り出して来る。それもこの短編集が寓話的だと感じさせる一因なのだろう。あるいは家族、例えば「祖父」や「父」といった人物もまた生々しい不気味な、少々カッコつけた言い方をすれば「他者」として立ち現れる。逆に言えば、それ以外の人間は(つまり男たちは)さほど生々しい印象をこちらにもたらさない。もちろん例外はあるが、概してのっぺりとした印象を受けるのだ。書き割りのような……と書くと陳腐な形容になるが、そんな印象を与える。

神話的/寓話的な、何処か現実から遊離したお伽噺めいた(あるいはノスタルジックな)世界を、しかし発想にひねりを加えてシュールとしか言いようのない世界に仕立て上げる。この手腕の見事さに今回も見事にやられてしまった。超絶技巧を凝らした、敢えて作り上げたナンセンスでぶっ飛んだ世界……例えばたまの音楽のような、一見するとふざけているようでありながら実はかなり高度なエンターテイメントがここにあると言っても良い。これは過褒ではない。それを確かめていただきたいのだが、あいにく今のところ図書館か古本屋に言って貰うしかないのが現状というのが情けないところである。海外の文学(私はしっくり来ないので使わないのだけれど、「ガイブン」というやつだ)に慣れた方には読みやすいのではないか。

佐藤哲也。この才能が埋もれている現状はつくづく惜しいと思う。私もさほど読めてないのは前述した通りなのだけれど、この超絶技巧を堪能したことのない方は是非読んでみて欲しい。構えずに、著者の真面目くさった、しかし独自のユーモアと不条理さがふんだんに含まれた世界に浸って欲しい。ぶっ飛ばされることはまず間違いない。こう書いて、この感想文を〆ることにしよう。