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踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

松浦寿輝『幽 花腐し』

幽 花腐し (講談社文芸文庫)

幽 花腐し (講談社文芸文庫)

 

これは失礼な考え方なのだろうけれど、松浦寿輝氏の小説を読んでいると「ことに依ると、私もこんな風に『小説』を書けるのではないか」と思ってしまう。今回文庫として纏められた『幽 花腐し』を読んでいると改めてそんな創作意欲が湧き起こって来た。大抵そういう創作意欲の発揮は失敗に終わるものだと分かっているが、松浦寿輝氏のノンシャランとした筆致、一見するとなにも先行きを考えていないような筆の滑らかな滑り方に身を任せていると陶酔感を感じてしまい、「私もこんな風に書ける」と思ってしまう。もちろんその「ノンシャランとした」というのは間違いで、松浦氏の計算が隅々まで行き届いた小説集であることに変わりはない。

今回読み返してみて思ったことは、まあ加齢のせいもあるのだろうが私が既に『幽』『花腐し』をそれぞれ単行本として読んだ段階で、つまり再読として本書に取り組んだにも関わらずこの本になにが書かれていたのかさっぱり覚えていなかったことにある。それどころか、読みながらこの小説集にはなにが書かれているのかということ、今自分はどんな文章を読んでいるのかということさえをもすっかり忘れてしまいそうになっているところにある。つまり「幽」「花腐し」もどんな話なのか、読み終えたあとになってさてどう整理するか考えた時点でさっぱり覚えていないことに気がつくのだ。こんな読後感は、吉田健一の小説を読んだ時のそれに近い……と書けば安直な発想、あるいは端的に言って過褒だろうか。

ひとつだけそんな覚束ない「読み」の中で言えることがあるとしたら、本書の男たちが紛れもなくマッチョイズムとは無縁であることだ。こんな言葉はそれこそ安直なのであまり使いたくないのだけれど、「草食系」という言葉が似合うのではないか。ガツガツと女性を貪り食う(下品な言葉で失礼!)ところはなく、女性との関わりにおいても例えばトラン・アン・ユンの映画のように――と書けば、あるいは映画に造詣の深い松浦氏は立腹されるかもしれないが――女性に誘われるがままに何処か流されるようにして官能に溺れて行く衰弱した男たちの姿が描かれるのだ。女性もそんな男たちを不思議な媚態で誘う。

例えば「幽」の主人公である伽村は、病み上がりの男として書かれる。明らかに文体からして吉田健一の小説の残響が濃厚であるこの小説は、やはり読みながらなにが書かれているのか良く分からない(ただ、吉田健一の小説ほど極度に輪郭が曖昧というわけではないが)文章の中で、不気味にその棲む家が様子を変えるお化け屋敷であること、彼を誘う女性が不気味であること、伽村という男がそんな不気味な映画のような(今度は黒沢清氏の名前を出せば、あるいは松浦氏は立腹されないかもしれないが)住まいの中に存在していることが分かる。だが、そんな不気味さは際立ったおどろおどろしい描写で書かれることはなく、文章の中に蕩けて行くようなものとして書かれるのだ。幾多の怪奇小説とも違う、あるいは矛盾するが怪奇小説の名作群の中にこの作品が加えられるべき理由がそこにある。

老獪な男、一筋縄では行かない食えない男たちが登場することもまた松浦作品の後の達成(例えば『巴』『半島』など)を思い起こせば興味深いことではないだろうか。主人公は一応常識人として綴られる。社会から脱落した、繰り返しになるがマッチョイズムとは無縁の男たちが、借金の取り立てや将棋の観察といった事態からそうした男たちに唆されて裏社会へと入り込んで行く(その「裏社会」のイメージがやはり何処か頭でっかちな、生々しいリアリティを伴わないものであることはご愛嬌というところか)。そして「花腐し」という言葉がいみじくも示すように腐った、甘美な腐臭の漂う世界へと入り込んで行く。

松浦作品は基本的にどれも紋切り型と言えば紋切り型である。先程も書いたように性的にガツガツしていない「草食系」の男が、老獪な男に誘われて日本の行く末を憂い、そして無邪気な女性に誘われて官能に溺れる。このパターンが延々と続く。それはもちろん悪いことではないのだが、そのあたりがワンパターン/マンネリに映るかもしれない。そのあたり読者を選ぶだろう。私は基本的に松浦寿輝氏の作品の持つ、男でありながらしかし男臭くない佇まいに惹かれるのでその紋切り型/ワンパターンを楽しんで読んでしまった。これは是非他の小説、例えば『名誉と恍惚』を読みたいところである。あるいは吉田健一の小説を読むというのも乙なものかもしれない(偉そうに書いているが、私は『金沢』『酒宴』程度しか読んでいないので……)。

詩人としてキャリアを始め、散文で表現をすることを選ぶようになりそこから更に「小説」へと松浦氏は活躍の場を広げて行った。四十代にして若々しさを捨てて、老衰の甘美な腐臭が漂う、筆の滑りに任せるがままに「小説」を書くようになった松浦氏が後の達成として繰り返すが『巴』『半島』を示したことを考えればこの初期の秀作集はその萌芽が垣間見える貴重なものとして読めるのではないか。私はこの書物をそう遠くない将来に読み返すだろう。内容をすっかり忘れてしまったのだから(これもまた失礼!)。松浦氏のテクストを読んでいる間の濃厚な快楽はなかなか他の作家の作品では味わえないものだ。