踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

アントワーヌ・コンパニョン、ジュリア・クリステヴァ他『プルーストと過ごす夏』

プルーストと過ごす夏

プルーストと過ごす夏

 

マルセル・プルースト失われた時を求めて』を読むということは、語弊を恐れずに言えば「時間の無駄遣い」なのではないかと思ってしまう。本を読む場合、大きく分ければ片方にはなにかしらの知識を得たいがために読む読者が居る。「有益」な読書を追い求めるというわけだ。教訓を得たい、知識を得たい、教養を身に着けたい……そんな読者が居る。だがもう一方ではそんな「有益」かどうかを考えずに、ひたすらテクストを読む快楽に溺れていたいと思って本を読む読者が居る。快楽に耽りたいがための、あとになにも残らないような読書……子どもの頃に絵本を読み耽って空想の世界に浸ったように、ただ単に児戯のようにテクストと戯れる読書。プルーストの『失われた時を求めて』の読書とは後者なのではないか、と思われる。なにかの役に立つわけではないが、読んでいてただただ楽しい……そんなあとになにも残らない読書。素晴らしいじゃないか。

プルーストと過ごす夏』はプルーストを生んだフランスで「ベストセラー」となった書物であるらしい。ページを開けば早速こちらを挑発するようなことが書かれている。『失われた時を求めて』を完読するのが並大抵のことではないことは誰でも分かることだろうが、「夏休み」に読んでみてはどうかと読者に薦めている。日本のヴァカンスの悲惨さを考えればそんなことはもちろん不可能なので改めて彼我の違いを思い知らされるわけだが、それでも纏まった時間を取ることが出来るならその時間を丸ごと蕩尽するつもりで『失われた時を求めて』を読んでみるのも悪くはないか、と思わされる。とことん時間を溝に捨てるつもりで『失われた時を求めて』に溺れるのも良いのではないか、と。

本書は『失われた時を求めて』に関して八人の読み手がそれぞれの切り口から分析を施した書物である。とは言えそれほど堅苦しい書物ではない。光文社から出版されている本書は光文社古典新訳文庫から出ている高遠弘美訳と本書の翻訳者の國分俊宏氏の訳で『失われた時を求めて』を引きながら、「時間」「登場人物」「プルーストと社交界」といった方角からスポットライトを当てて語られて行く。『失われた時を求めて』からの引用が少なくない本書は困った一冊とも言える。本書を読めば『失われた時を求めて』の美味しいところだけを読めてしまうから、全体を読んだ気にさせられてしまうのだ。だから本書を読んで『失われた時を求めて』を読んだ気になるのは危険だろう。是非とも本書を読まれた方は『失われた時を求めて』に挑んでいただきたい。私も本書を読んで、既読のはずの場所の記憶がすっかり抜け落ちてしまっているのに愕然としながら――『失われた時を求めて』はその意味で「再読」が必須な書物だろう――未読の箇所に挑むつもりで居る。

ラジオ番組での語りがベースとなって構成された書物だけあって語られている内容は一見すると平易だが、しかし本書は「入門」として相応しいかどうか。やはり『失われた時を求めて』を耽読した読者こそが本書の読み手に相応しいのではないか。少なくともプルーストについてある程度の知識がなければやはりハードルが高いのではないかと思われる。私自身読んでいて自分の不勉強を痛感させられた。いや、先に書いたが『失われた時を求めて』を読むことは「勉強」ではない。ないのだから、本書を片手に『失われた時を求めて』と戯れつつまた本書に戻り……ということを往還すれば良いだけの話なので本書はその意味で『失われた時を求めて』共々「再読」を要請される書物だろう。私自身『失われた時を求めて』をきちんと読んでから本書を読めばまた違った感想を考えられるかもしれない。これは宿題にしたい。

逆に言えば、『失われた時を求めて』はこのような多様な読みを誘うテクストとして今なお魅力的であると言うことも出来る。八人の書き手はあの大長編を愛読し、それぞれ競い合うようにして魅力を語っている。しかもどの解釈も書物への偏愛に満ちたものであり、つまりは彼らが(有名どころではジュリア・クリステヴァたちが)なによりも『失われた時を求めて』に溺れた人物であることを隠していないところが本書の読みどころか。『失われた時を求めて』で流れる時間について、哲学的な側面について、当時の風俗について、プルーストのファッションの審美眼について……解釈は笑ってしまうくらいバラバラだ。同じ作家を語っているとは思えないくらいに切り口が違う。『失われた時を求めて』を読み終えてからしっくり来る解釈を探すも一興だし、あの大長編を読む前に本書を読んで準備をしてから読むのも結構だろう。『失われた時を求めて』を読むことは先にも書いたが、大いなる時間の無駄遣いなのだから。

そういうわけで、私自身の現時点での読みはこのような悲惨なものとなってしまった。彼らの個々の分析についてなにも語れず、本書の特徴というかアウトラインをなぞるような読み方/語り方しか出来ないのが限界なのだった。これは是非『失われた時を求めて』にきちんと溺れた上で読み直さなければなるまい。だから現段階で本書の感想を書くのは早過ぎるのだが、『失われた時を求めて』を読み終えてから本書をまた読むのは当分先のことになりそうなので未熟ながら感想文を綴った次第である。『失われた時を求めて』を読もう読もうとして何度も挫折した読者、あるいは苦痛に感じながら通読した猛者なら本書から学べるところは多々あるのではないか。とことん『失われた時を求めて』の世界の中で遊び尽くした愛読者――「批評家」以前に「愛読者」である――八人の熱い語り口に誘われて、途上にある『失われた時を求めて』の読書を続けたいと思いつつ本書を私は読み終えた。