踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

マルセル・プルースト『失われた時を求めて』第一巻感想

失われた時を求めて〈1〉第一篇「スワン家のほうへ1」 (光文社古典新訳文庫)

失われた時を求めて〈1〉第一篇「スワン家のほうへ1」 (光文社古典新訳文庫)

 

私が一番幼い頃に抱いていて今でも覚えている記憶は四歳の頃のものである。坂道の下から上にある家を眺めていたというもので、特にそれ自体になにかドラマティックな思い出が付随しているというわけではない。ないのだけれど、ただ坂道から家のある方向を見ていたという記憶だけは今でもぼんやりと残っていて離れない。人に依ってこうした「原初の記憶」というのはもちろん違うのだろう。生まれた時のことを覚えているという豪の者も居れば、もっと遅い日から記憶を抱いているという人も居るのだろうと思う。誰にとっても幼少期というのは当然あり得たはずである。問題はそれを記憶として覚えているかどうかだ。記憶として残っていれば、取りも直さずその人はその時間を「生きた」ことを意味するはずである。人が「生きた」と呼べるのは、逆に言えば濃密な記憶の時間があってからこそのことに他ならない。

マルセル・プルースト失われた時を求めて』は、もちろん多くの方がそうであるだろうと思うのだがこれまで私自身も読もう読もうと思って歯が立たなかった一冊だった。冒頭の眠りの場面が長ったらしくて到底このテンションではついて行けないと思ったのである。今から考えれば一行一行にこだわり「なにが書かれているのか」を吟味しようとして読んだのが拙かったのかもしれないと思う。だから今回の読書ではそうした「精読」を諦めて、ただテクストに引きずられるようにして読み進めて行った。なにが書かれているのかは不問にして、ひたすら書かれている文章それ自体をうっとり読み進めることにしたのである。だから、一体なにが書かれているのかについてはあやふやなままで読んでしまったのだった。高遠弘美氏はあるいはこうした読み方を立腹されるかもしれない。一行一行を吟味しながら読むのが真っ当な読み方である、と。

だが、私は我慢がならなかった。フローベール『ボヴァリー夫人』を読んで(こんなところでこんな小説を持ち出すこと自体頓珍漢なのは分かっているが)、小説は「スジ」の面白さだけが重要ではないということ、そこに「どのように」事態が書かれているかを読み取るのが重要なのだということを私は思い知ったように思う。芥川龍之介フローベールを称して「美しい退屈」と語っていたが、『失われた時を求めて』を読んだらまさに同じことを語っただろう。語弊を恐れずに言えば、『失われた時を求めて』も退屈な小説である。劇的な出来事でこちらを引っ張って行く類のものではない。ただ綿密に、語り手の幼年期の思い出がこれでもかというほど書かれる。普通ならそんな小説退屈だと投げ出してしまうものなのだろう。

しかし、そうはならなかった。読みながら私は他でもないこの私自身の記憶を掘り出しているようなそんな気持ちになったのである。幼少期、ひたすら毎日が楽しかった時代の思い出を引っ張り出されてそれに溺れるようにさせられて、自分と自分を取り巻く大人のことや初めて異性に思慕を抱いた時のことを思い出してしまいながら読んだのだった。プルーストにとってもしかしたらこの小説を書き続けることはそうした甘美な思い出に浸り続けることだったのではないかと思われて仕方がない。料理の話、女中の話、家族の話、そして初恋の話……次々と繰り出されるそうした出来事に、私は自分の原初の記憶を照らし合わせて読まされたというわけである。

マルセル・プルーストは本書を書くことに一生を捧げたと言われている。ひたすら部屋に引きこもって本書の推敲をしていたのだ、と。その情熱を可能にしたものといえば、結局はそうした自分の幼少期の思い出にひたすら浸りたいという甘美な願望故のことだったのではないか。本書を書き直すということはすなわち、別段プルーストの自伝というわけでもないだろうがしかし克明に、この上なく克明に幼年時代の思い出を書き綴ったその世界に「書くこと」によって戻りたいと思ったからなのではないかという気がするのである。その結果、「今」を生きる私にも決して無縁とは言えない幼少期の思い出が蘇るテクストとして結実したということではないかと思ったのである。

正直なところ、なにが書かれているのかさっぱり分からないまま読んだ。曖昧模糊としたイメージは掴める。だが、くっきりとこんなことが起こっている……ということを把握して読んだわけではない。だからあるいはそのような読み方は邪道だと言われるのかもしれない。ただ、テクストの織り成す快楽に耽りながら読んでしまったので、この文体が延々と続くのかと思うとなんだか嬉しくなってしまった。既存の訳を色々冒頭部分だけ読み比べてみてしまったのだけれど、結局高遠弘美訳が自分の相性に合いそうなので読んでしまったのだった。これから、プルーストが描いた世界の中にどっぷりと浸れるのかと思うと幸福で仕方がない。

テクストの織り成す独特のノリに惹かれて読む……そこになにが書かれているのかさっぱり分からないまま、それでもページをめくる手が止まらなかった。だから、私は飛ばし読みはしていないつもりなのだけれど結果として「飛ばし読み」になっているのかもしれない。マドレーヌの場面、アスパラガスの場面、恋する場面……そんなところどころの記憶こそ残れど、一体本書全体でなにが書かれているのかはさっぱり分からないまま終わってしまった。こんな読書で良いんだろうか……そう思いつつも読む手が止まらなかった。このような読みは立腹されるかもしれないが、そこはまあ野蛮で育ちの悪い読者の読書ということで許して貰いたい。第二巻以降も楽しみだ。