踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

フローベール『ボヴァリー夫人』

ボヴァリー夫人 (新潮文庫)

ボヴァリー夫人 (新潮文庫)

 

私の読まず嫌いは酷いもので、フローベール『ボヴァリー夫人』もいずれ読まなければならないと思いつつ積んだままでいたのだった。蓮實重彦氏が本格的な『「ボヴァリー夫人」論』を著したのだからなおのこと読まねばなるまいと思いつつ、読めなかった。基本的に読書家でもなければ勉強家というわけでもないので、読んで苦痛になるような読書はしないことにしているのである。『ボヴァリー夫人』もまた、私にとって「読んで苦痛になるような読書」体験だった。だから今日も実を言えば読み通せると思っていなかった。なにか特別なことがあったわけではないが、今日ヒマでしょうがなかった時にふとページをめくるとそこから最後まで殆ど一気に読めてしまった。一気にだ。

『ボヴァリー夫人』を知る人なら「そんなことはあり得ない!」と言われるかもしれない。本書は「一気読み」が出来るような本ではないのだ。「ページ・ターナー」という言葉がある。次を読めない展開でスリリングに引っ張って行く書物やそういう作品を書く作家を称する。フローベール『ボヴァリー夫人』はそれと真逆である。『ボヴァリー夫人』は「次」が読めてしまう作品である。誰もが本書を読めばそこに何処か見慣れた光景が広がっていることを知るだろう。当たり前だ。本書のエンマがありふれたロマンスを読み耽り「恋愛」を学びそれを真似たいと思ったように(「恋に恋する」というやつだ)、後の多くの「恋愛小説」がこの恋愛小説の集大成である『ボヴァリー夫人』を真似てしまったのである。数多とある「恋愛小説」の王道を、本書こそがパイオニアとなって切り開いたのである。

だから、スジ自体はそれほど斬新さは感じられないかもしれない。凡庸な夫シャルルに、そして退屈な田舎暮らしに嫌気が差してしまいとことんロマンスを読み耽り「恋愛」を夢見る――失礼な喩えで悪いが、少女マンガを読んでロマンスに憧れる少女のような――人妻エンマが、青年や色男にのめり込み駆け落ちまで計画するも果たせず破滅して行くという話である。むしろ鈍い退屈ささえ感じられる。なるべくしてなってしまう、という……期待を裏切らないそんな話である。凡庸な夫に飽き足りない人妻の身勝手さが暴走し、浮気をしてしまうというメロドラマ。そんな話なのである。こんな話、もう既に読んだよ……という既視感を拭えなかった。むろん、フローベールが先なのは分かっている。だから後の作家がフローベールを真似たのだ。だったらフローベールは追い越された時代遅れの作家……ということになるのだろう。

だが、そうならないのが本書の凄味である。芳川泰久氏の訳がどれだけ斬新なことを試みているかは氏が解説文で語っている通りであるがだからこそなのか(本書はその意味では、「解説」から読む方が良いのかもしれない)、なおこちらを読ませるのだ。それは、ありきたりだが細部が膨らみがあるから、としか言いようがない。フローベールの描写の微細さについては有名だろう。だから、これまでも取っ掛かりを読んでその冗長さに匙を投げた口なのだけれど、今回の読書では微に入り細に入り、しかし鬱陶しくなく過剰でもない丁寧な「描写」を堪能することが出来た。芳川氏の翻訳はその意味で成功しているのではないかと思う。今の作家を読むようにスラスラと読むことが出来たのだ。悪く言えば現代的過ぎるので、スタンダードとして残るものかどうか。これは時流の流れに答えを任せるとしよう。

「恋に恋する」……「恋愛」は自明の概念ではない、ととある社会学者(宮台真司氏だったか?)が語っていたのを思い出す。私たちは普通に恋に落ちてそれを「恋愛」と呼ぶ、と考えてしまう。逆だ、と語られる。「恋愛」というモデルがあり、概念があり、それに従って私たちは「恋愛」をするのだ、と。私自身は恋に落ちたことが一度もないし「恋愛」をしたこともないので(特定の異性に惹かれたことはあるが、一方的なものでありそれを「恋愛」と呼んで良いのかどうか私には分からない)、この理屈が真実かどうかは分からない。だが、エンマの何処までも自己中心的に華麗な「恋愛」に憧れそして浮気/姦通に溺れる姿はまさに「恋に恋する」人物、「恋愛」という概念にこそ溺れる人物そのものではないか。だからエンマは現代の私たちの姿でもあるのだ。フローベールは私たちの姿をも先取りしていたのだ。

もう少し理屈を弄ぼう。私たちは「リア充」という人種に憧れる。リアルがとことん充実していて苦悩と無縁な存在、あってもその苦悩すらも充実している存在……もちろんそんな人物など居ないのである。誰だってそれこそ宮台真司氏言うところの「終わりなき日常」を生きている。エンマが退屈な田舎暮らしに倦怠感を抱いているように、日常の退屈さに飽き飽きして、なにも劇的なことが起こらない――だからこそ喜ぶべき――時間/人生を生きているのである。劇的なことが仮に起きたとしても、それはまた退屈な「日常」に呑み込まれる。そんな中「リア充」に憧れる。私たちのそんなあり得ない理想/夢想に溺れる姿は、本書のエンマそのものではないだろうか。エンマもまた、優れた文学の主人公(例えばザムザやムルソー)がそうであるように「現代的」なのである。

本書が今も読むに耐え得るとすれば、それは結局本書の中に紛れもなく退屈な「日常」を生きる私たちのような人物の姿が、これ以上望めないほどに克明に描かれているからに他ならない。本書を読むということはそんな「退屈さ」とつき合うということである。スジは読めてしまう。整理すれば単純な話だが、しかしこれ以上ないほど丹念にくっきりと描かれる。「退屈さ」が、しかし何処までも豊満な細部の膨らみに依って彩られてしまうことによって一変して退屈なものでなくなるという逆説。『ボヴァリー夫人』を読むとは、つまりはそうした「退屈さ」を堪能するという倒錯した営みなのではないか。少なくとも今回の読書は本当に私にとって快いものだった。

だがそれをこの駄文で伝えられるかどうか。『ボヴァリー夫人』は、むしろ「恋愛小説」を既に読み尽くしてしまった……むろん、次から次へとそういった小説は書かれるわけなのだがそういった作品にも興味を惹かれなくなってしまった人にこそ、究極の「恋愛小説」として薦められるべき作品だ。そういう擦れっ枯らしの読者、とことん王道も異端も「恋愛小説」を読み尽くした方こそが読むべき小説なのだと思う。貴方がもしそういう人物なら是非読んでいただきたい。読めばすぐに自分の姿があることに気づくだろう。本書は教えてくれるはずだ。エンマ/ボヴァリー夫人こそが実はそんな貴方の姿なのである、と。