踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

真魚八重子『バッドエンドの誘惑』

何故バッドエンドで終わる映画は作られ続けるのだろう? 本書を読みながら、そんなことが気になって仕方がなかった。辛い現実を忘れるためにハッピーエンドの映画に耽溺する……そういう心理が働くことの方が普通ではないか。頭木弘樹『絶望読書』の感想文でも書いたが、何故後味の悪い映画、もっと言えば「絶望」を描いた映画に人は惹かれるのか。それは人それぞれであろう。辛い現実を忘れさせてくれるような映画(例えば『ラ・ラ・ランド』)がともすれば絵空事のようにしか思えないため飽き足りなくなってそうした映画に人を走らせるのか、もしくは逆に「厭な映画」をこそ求めてしまう心理が私たちの内にあるからなのか。私自身わざわざ「絶望」を描いた「厭な映画」を求めてしまう気持ちがないわけでもないので、そこで考えは止まってしまうのだった。何故「バッドエンドの」映画は人を「誘惑」するのだろうか。

本書は真魚八重子氏が書き下ろした、「厭な映画」つまり「バッドエンド」で終わる映画をめぐる書物である。具体的にはビリー・ワイルダー『サンセット大通り』やルイス・ブニュエル『エル』といった古典からギレルモ・デル・トロクリムゾン・ピーク』まで新旧問わず多くの映画が俎上に乗せられている。この書物に載っていること自体「バッドエンド」であるということも明らかになるし、あるいは本書はネタを積極的に割って行くという姿勢を取っているので気になる映画が収められているという方はそうした映画を観てから挑んだ方が賢明であろう。私は未見の映画も数多くあったし、辛うじて観ている映画であっても解釈が私と異なっていたので「そうか、そういう観方もあるのか」と刺激を感じたことも確かだ。だからネタを割られた映画であっても(いや、そうであればなおのこと)観たくなってしまった。まずは韓国映画から観て行こうか……そう思わされたのだった。その時点で「勝ち」であろう。

本書は志が高い。例えばこのような「厭な映画」、つまり「バッドエンド」の映画を挙げようと思えば挙げられたはずのラース・フォン・トリアーミヒャエル・ハネケ作品を本書では一本も取り上げない。ざっくり言ってしまえば、そうした両者の映画は人を積極的に「厭な」気分にさせるように仕向けている。悪意がある、と(こんな表現は真魚氏は使っていないが)言っても良い。そしてそれは、どうしても内発的に「厭な映画」を撮らざるを得ない監督の映画とは似て非なるものなのだ、と氏は語る。そのスタンスに関しては賛否両論があるだろう。あるいはチョイスの中には「この映画が何故入っていない?」と不満を抱かれる向きもあるかもしれない。古今東西の映画を取り入れたヴァラエティに富んだガイドブックになっていると個人的には判断するが、そう思わない方も居られるだろう。

あるいは、真魚氏がやっていることは結局「スジ」を紹介することにこだわった紹介ではないかとも言える。本書は喩えるなら DJ が音楽をミックスして一枚の流れに纏め上げたような書物だ。一本一本に本格的に評価が施されていると言うより、全体の流れの中で一本一本の映画がパーツとして機能していると言うべきか。だから映画それ自体の魅力が何処まで浮き立つものになっているか評価は難しい。私はなんだかんだ言ってこの書物を読んで韓国映画に関する無知を恥じさせられ、早速ポン・ジュノパク・チャヌクといった監督の映画を観たくなってしまったのだがそうした読者がどれだけ居られるのかは難しいところだ。

「スジ」を取り上げて云々、と私は書いた。ないものねだりであることは承知しているが、本書はその特性上どうしても「スジ」や「構造」にこだわった書き方が為されている。むろんその分析自体は見事であるが、逆に言えば「この映画の見どころはここだ」というような光るショットに人を誘わないところも弱みとして挙げられる。むろん、そんなショットの凄味を無視しているわけではないが映画が映画としてどのように「バッドエンド」を獲得しているかを説明するためにはそうした「スジ」の旨味をこそ分析しなくてはならなかったのだから、アカデミシャン気取りのショットやシーンの深読みは本書では禁欲されている。私はそれを真魚氏の誠実さと評価したい。これについては『映画なしでは生きられない』を参照されたい。氏の不器用なまでの誠実さは貴重だと思う。

本書で読み応えがあったのは先述したような韓国なら韓国、イギリスならイギリスの映画をギュッと絞ったテーマで纏めたところである。見通しの良さがあった。逆に言えば(一度しか読んでいない筆者の怠慢を指摘されても仕方がないが)それ以外の箇所は今ひとつベースとなっているテーマがどんなものなのか見えづらいきらいがあった。だから縦横無尽に映画史の知識を引っ張り出して来る真魚氏の博識には驚かされつつも、しかし同時に散漫な印象を拭えなかったことも事実である。真魚氏の中でそうした映画は必然的に結びついているのだろうが、それが真魚氏個人のこだわりの域を出られなかった印象を抱いたのも限界として感じるので難しいのだった。もっと意外性のあるチョイスが為されていれば(例えば如何にも「ハッピー・エンド」として終わる映画が実はバッドエンドなのではないか、という捻った指摘があれば)輝いたのではないか、と。

物足りない、とは言わない。丁寧に作られた好著であることは間違いがない。だからこそ贅沢を言ってしまいたくなるのだ。「厭な映画」に人を誘うだけの魅力はある。だが、だからこそもう一歩踏み込んで冒険する勇気が必要だったのではないか。一般的な常識に対して唾を吐く姿勢というのか……そのあたり残念に思う。とは言えクオリティが低いとかそういうことを言いたいわけではないので、興味のある方はまず真魚氏の『映画なしでは生きられない』を読まれることをお薦めしたい。あの本が相性が合うというのであれば本書は充分に満喫出来るだろう。なんだかんだ言って文句をつけてしまったが、真魚氏の誠実さは応援したいし今後も著作を読めることを楽しみにしている。まずは『オールド・ボーイ』を観るところから始めようか。