踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

渋谷実『本日休診』

渋谷実『本日休診』一度目。ネタは割らないが、ハッピー・エンドで終わる素朴な話だ。今回の記事は敢えて差別的な呼称を使う。また、私の男女に対する感覚が歪んでいることをロコツに現すものでもあり得るので、ご指摘願いたい。

<あの頃映画>本日休診 [DVD]

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本作が 1952 年に公開されたということは戦後まだ傷跡が生々しく残っていたことを意味する。戦争で命は助かったものの「気違い」になってしまった勇作の姿が痛々しい。現代なら彼のような活発で活動的な男は即座に閉鎖病棟や自宅に閉じ込めて管理させておいただろう(当時もそうだったのか?)。だが、彼にも居場所はある。「ホーム」がある。彼なりにその「気違い」を許されて彼の妄想の兵隊ごっこにつき合ってやっている。そんな日常があったのだなと思ってしまった。さぞかし手を焼いただろう。この「『気違い』をどう日常に溶け込ませるか」という問題は現代でもなお尾を引いていることは言うまでもない。

戦後のドサクサが祟ってなのか、この映画の人々の暮らしぶりは極めて貧しい。まだ高度経済成長時代ではなかった時期故のことなのだろうが、襖の敗れた家屋や船で住んでいる人々の姿もまた生々しく描かれる。一歩間違えば悲惨な話になりそうだ。「貧困」を強調することがしかしこの映画を「貧乏臭い」と感じさせないのは渋谷実監督の力量の賜物なのか。観ていて唸らされてしまった。最初は物足りないなと思っていたのだけれど、エンディングでじわじわ来る感動というものが確かにあった。

舞台がそれだけ貧しく素朴なものなのであれば(恐らく「今」以上に「貧困」は切実な問題だっただろう)、撮る方もそんなに予算は掛けられまい。映画に不勉強な私でも知っている俳優が若手として多数登場しているのはそれだけで冒険だったのではないか。それとも彼らに与えられるギャラが安過ぎたのか。それほど創意工夫がされない、下手をすれば(ロケ撮影はあるが)長屋の人情噺という映画として終わってしまっていただろう。現代の多角的な撮り方に慣れた人間にとってこの映画は、自主制作レヴェルと言ってもおかしくないくらい素朴な手法で撮られている。

だが、それが味になる……と言えば呑気なものだろうか。この映画の原作となった井伏鱒二の小説は読んでいないのだが(それどころか、井伏作品自体を読んでいないという有り様!)、この映画を観て興味が湧いた。ストーリー的に良く出来ているのだ。脚本を担当した斎藤良輔氏は後の大庭秀雄監督『雪国』でも共同脚本を務めている。川端康成『雪国』自体は流石に読んでいるのでこれは観るのが楽しみだ。若かりし頃の岩下志麻が出ているということなので、それにも興味を惹かれた。

じわじわ来るものとはなにか。当時の物価が分からないので頓珍漢なことを書いてしまっているかもしれないが、それはまず第一にそうした「貧困」に喘ぐ人々の中で主人公の医師だけが浮いているわけではないことが挙げられよう。柳永二郎の演技が味わいがある。「医は仁術なり」を貫く人情派……と書くとどうしてもこちらが偽善的/独善的に受け取ってしまうきらいがあるが、彼とて地に足の着いた人間なのである。だから彼の姿は微笑ましい。不幸もある。「気違い」になってしまった子どものこともあるし、むろん医療費のこともあろう(あんなにツケで払わせていたら破産するんじゃないか?)。だが、その美徳がイヤミなく伝わるのだ。この柳永二郎という俳優は覚えておく必要がありそうだ。

俳優陣が今では考えられないほど豪華なのだけれど、若手の時代の彼らはやはり何処か青臭い。でも、彼らの若さ/フレッシュさを活かした演技は光っている。狂気に生きる三國連太郎もだが、和服姿が色っぽい淡島千景の佇まいがこの映画では印象に残った。身勝手な男に振り回される女たち……と書けばステレオタイプになってしまうのだけれど、そんな「女たち」が「貧困」と、あと強姦されたり死産していたりしたという独特の不幸を踏まえてなおも生きようとする姿は凛々しい。「今」ならもっと手の込んだことが出来るだろうが――その意味ではドリフのコント的な映画なのだが――その素朴さだからこそ俳優の演技が浮き立つのかもしれない。

女性たちの強さ……この映画は男性陣は基本的にマッチョなところが匂うと感じる。いや、そんなにツンと来るほど匂うのではないし匂うと言ってもそれは良い意味で「色気がある」ということに繋がるのだけれど、女性たちの、つまり不幸な境遇でそれでも博打や裏稼業に手を伸ばさずに生きようとする健気なところは「強さ」として受け取れる。ベタと言えばベタなメッセージだ。だが、「不幸」を生きるということ……これが「今」の私個人に響くことなので「今」を嘆いてばかりいる自分を恥じてしまった。

群像劇だからなのだろうが、多数の登場人物たちが登場することで特定の登場人物に感情移入を許さない。彼らが生きている「世間」を描いている。それがどのようなものかは上述した通りだ。柳永二郎はそう大してマッチョではないと感じられるのは基本的に彼が老人であることや、たらい回しにされるがままに往診に出向くその情けなさもあるのかもしれない(彼の情けなさは泥酔して往診に赴く場面や、例えば数本の列車に何度も行く手を妨害されオタオタする場面に如実に現れている。この映画では頻繁に「列車」が映り、彼らの通行を妨げこそすれ交通手段になることはないことも示唆的だ)。

女性たちは男性陣の、まさに戦争で狂ってしまった息子が剛直過ぎるほど「愚直」であるのに代表される単純さ(これは多分、柳永二郎の情けなさとも相通じるので彼もまた「男」なのかもしれない。今はこれ以上考えられない)と比べて強かだ。例えば鶴田浩二演じるチンピラの加吉が恐喝を働くところを、富豪の女性(彼女はヤクザではないが、ヤクザ的な側面はある)が狡猾に切り返す場面に現れている。むろん、彼の恋人のお町(淡島千景)はそこまで狡猾ではない。ギャンブルに溺れる兄に「愚直」につき合わされて苦労を重ねて倒れてしまう彼女だけが浮いている。彼女はレイプされてしまった悠子(角梨枝子)からその意味で、処世術を教わる。「女」になる……というわけだ。悠子もまた狡猾な「女」(正確には男女ふたり組だが)に騙されて生きる力を得たように……こういう書き方は男女観の「私の」歪みが丸出しで気恥ずかしいが。

そんなところだろうか。くどいが映画の派手さを期待しては行けない。ドリフのコントを引き合いに出してしまったが、基本的にはアレの延長みたいな映画だ。カネが掛かっていない。だが何故貧乏臭くないのかは既に書いた。練られた脚本と俳優の光る演技。全てはそこに落ち着く。傑作と言いかねるところはないではない。ドリフのコントを映画館で(あるいは「映画」として)観るとやはりショボく感じられるという限界は否めない。だが、その味わいが良いのだ、とも思われる。またしても興味深い映画を知ってしまった。この映画は芝山幹郎『今日も元気だ映画を見よう』で知ったのだけれど、観て良かったと思う。