踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

ミヒャエル・ハネケ『愛、アムール』

愛、アムール [DVD]

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ミヒャエル・ハネケ愛、アムール』一度目。ネタを割る。

ミヒャエル・ハネケの映画を全て観たわけではないし、記憶力にも自信がないので間違っているかもしれない。それを踏まえた上で敢えて言えば、ハネケの映画では作中で何故「ニュース」が流れるのかを気にして観てしまった。例えば『71フラグメンツ』でのニュース映像(及びに登場人物が鑑賞している光景)が何故印象に残るのか。この映画でもニュースの音声が流れる場面が登場する。それに監督としては特にこだわりはないのかもしれないし、どうでも良いと言えばどうでも良い要素でもある。だが、その構図に私は深読みを誘われたのだ。

ハネケ監督の映画で何故「ニュース」が流れるのか。それは外との接点がそうした「ニュース」でしかないということの象徴ではないか。「ニュース」は遠くから発されるなんらかのメッセージを象徴しているのではないか、と。「ニュース」でのみ繋がる「世界」との関係……この映画はスジ自体は単純な話である。病んだ妻とその介護に励む夫の恋愛関係。それを淡々と描いたものであり凝ったところは何処にもない。にも関わらず彼らの関係が美しいのはそうしたふたりの姿が「世界」から隔離されて成り立っていると受け取れるからではないか、と。

「世界」から隔離……そう考えてみればこの映画で窓や扉が開け放たれたり閉められたりしている場面が映されることは深読みを誘う(いや、浅過ぎる「読み」かもしれないが)。例えば二度登場する鳩。鳩は言うまでもないが「世界」から飛んで来るものであり、「ニュース」以外の彼らの数少ない「世界」との接点を示すものである。鳩や介護人や家族。そういったもの以外に「世界」との接点はない。夫妻が自ら外に出る場面は基本的にはない。家の中で引きこもって生活を続けている姿がただ描かれるだけだ。

斎藤環氏風に言えば「引きこもり」としての夫妻……そう考えてみれば、ハネケの映画では登場人物たちは何処か「引きこもり」であるという印象を受ける。『ファニーゲーム』が基本的には家屋の中で展開する閉ざされた空間での物語であったことを想起しよう。彼らもまた「引きこもり」である。『セブンス・コンチネント』での家族、『ベニーズ・ビデオ』でヴィデオ撮影に勤しむ少年、『71フラグメンツ』での室内での光景……『隠された記憶』も「室内」でヴィデオを再生するところから始まるのだった。

つまり、ハネケの映画では登場人物たちは家族であっても殺人者であっても多かれ少なかれ「孤独」なのだ。コミュニケーションが巧く回っていないと言うべきか。例えば『ファニーゲーム』などで展開される「殺人」は根本的にその「コミュニケーション」の可能性を断つ試みであると言うことが出来る。「殺人」とは相手を究極なまでに拒否すること、拒絶することだ。この映画も表面上は甘ったるいラブロマンスとして観ることが出来るが、彼ら夫妻は「孤独」なのではないか? そこに「愛」という名の「コミュニケーション」は成り立っているのか? いないのか? 夫が「外」からやって来た鳩を殺そうとする場面は象徴的だ。

例えば、病妻は自らの意識の中に閉じこもってしまう。夫の呼び掛けに反応せず茫然自失とした姿を現す。夫は夫でそんな妻を強引に介護しようと外部を阻み、協力者を排除し食事を無理矢理食べさせる。そこに「コミュニケーション」はあるのか? 私は「ない」と思いたい。彼らが「愛」だと思ってやっていることは「エゴ」の押しつけに過ぎないのではないか。いや、逆かもしれない。「エゴ」の押しつけを我々は「愛」と勘違いしているのかもしれない……そう考えれば、甘ったるいラブロマンスに見せ掛けてこちらを騙すハネケの高笑いが聞こえてきそうではないか。だから騙されてはならないのだ。

ネタを割ると、夫はドアの隙間にテープで目張りを行う。これまで整理して来たことを踏まえればそのようにしてとことん「閉ざし」、外部と断絶しようとする行為がなにを意味するのかは既に分かるだろう。そして、夫の娘はそんな男の部屋で「開かれた」扉を通るのだ。その「閉鎖」と「開示」の好対照がこの映画に不吉な余韻を残す見事な演出になっている。ラブロマンスとして「だけ」観れば凡庸ですらあるかもしれないこの映画が、しかし無視し得ない理由もそこにある。見事なハネケの手腕、と言えるだろう。

映像の美しさやトリッキーな要素は乏しい。そこも評価が割れるかもしれない。私はそこも含めて、つまり「敢えて」甘ったるいラブロマンスとして(この映画の日本語版の予告編が騙そうとしているように)作り上げられたハネケ流の悪い冗談なのだ、と受け取った。あるいは強烈なイヤミなのではないか、と。だからこそエンディングでハネケの高笑いが聞こえる傑作と言えるのではないか、と思ってしまった。いや、見事な作品だ。『白いリボン』のような分かりやすい後味の悪さを残すことはないが、しかし確実にこちらに傷をつける作品だと思う。

ミヒャエル・ハネケ。『ファニーゲーム』から観始めたのは正解だったのかどうか。『ファニーゲーム』の監督の延長上で考えればこんなに見事なラブロマンス(を装った悪意の産物)を描く人だとは思わなかっただろう。『ファニーゲーム』が有名になり過ぎたのだ。『ファニーゲーム』では描けなかった「愛」を(それが「エゴ」の押しつけであれ……いやだからこそ)見事に描いている。しかも奥の深い構成に依って。要注意の監督、と言えそうだ。