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踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

ミヒャエル・ハネケ『白いリボン』

白いリボン [DVD]

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ミヒャエル・ハネケ白いリボン』一度目。ネタを割る。

ハネケ監督はどうしてこの映画をモノクロームで撮ろうと思ったのだろうか? という問いがずっと頭の中に残留して離れなかった。きっと理由があるはずだ。しかしそれは第一次世界大戦以前の国を描いたから、つまり古き良き時代を映した映画だからという理由ではないだろう、と。もう少し深い理由があるのではないか?

この映画のタイトルが示す通り、「白」はある意味では「無垢」を際立たせる色として映し出される。子どもたちは自らの「嘘」を指弾され――それが本当かどうかなのかはハッキリされない――「白いリボン」をつけさせられる。それに依ってこそ「赦される」ということだ。登場人物が着ている服が、あるいは風景がモノクロームであることはその「白」さを際立たせたいからではないか?

逆に言えば「黒」は「嘘」の色なのである(先ほどの子どもたちも「黒」く見える服を着させられていた)。その「白」の「無垢」と「黒」の「嘘」――なんなら「欺瞞」と言っても良い――のコントラストを強調するために敢えてこのような色使いを行ったのではないかと思うのだ。主人公の語り部となる先生がグレーの服を着ていることは象徴的だ。彼が一応この映画の謎を解き明かすべく奮闘するというのが大まかなスジになるのだけれど、彼の存在はグレーゾーンなのである。真にも偽にも辿り着けない彼の境遇、決して「無垢」ではあり得ない「大人」であることを象徴しているかのようだ。

そう、この映画はミステリとしても観られるのである(だがそれが単純過ぎる解釈であることも後に述べる)。『隠された記憶』がそうであったように。『隠された記憶』と比べるとラブロマンスを挿入したせいでやや中弛みの感があることは否めない。しかし、無駄な描写ではない。私がミステリ的な要素を期待し過ぎたからお門違いなのであって、もっと本質は別のところにあるのかもしれない。

この映画が描かんとしているのは、つまり「謎解き」ではないのだ。ネタを割れば、この映画は真相を遂に描かれない。ドクターの乗馬中の事故、納屋への放火、子どもの虐待……そういった事柄が誰に依って行われたのかは(ギリギリまで肉薄されたとしても)分からない。だから、子どもたちが取り敢えず犯人として指摘されるも結局のところそれがどうなのかは分からないのだ。子どもたちが着ている服の色に注意すれば良い。彼らは「白」い服と「黒」い服を纏っている。どちらとも解釈出来るのだ。

彼らは「白」い服を着ている時は「無垢」であると考えられる……では何故、仮に子どもたちが犯人だとしても彼らが「白」い服を着ているのか。それは「無垢」をどう捉えるかに依る。「無垢」であるにも関わらず悪戯をしたり暴力行為を振るったりしたのではない。逆だ。「無垢」だからこそ為される悪戯行為や暴力沙汰というものがこの世には存在し得るのだ。その不気味さをハネケ監督は際立たせたかったのではないか? その意味でラスト・シーンで登場人物の大人たちが「黒」い服を着て教会に集まっていることに留意しよう。彼らは「欺瞞」に満ちた存在なのだ。

「大人」と「子ども」。その対立もまた重要だろう。先述したように「大人」の世界は「欺瞞」に満ちた世界として描かれる。誰がどうやって悪戯や暴力を振るったのか。納屋に放火したのか。結局は「大人」たちの仕業だったのかもしれない。それは分からないままだ。「大人」たちが疑心暗鬼に陥り、相互が信頼出来なくなる状況を見事に描いている。彼らは「黒」い服を着ることが多い。それは先述した通りだ(厳密にそこまで注意を払って観たわけではないので、間違いがあるかもしれないが)。

その意味で例えばキャベツ畑や納屋の放火、雪原や草原が「白」く映し出されることは象徴的だ。世界は「白」いのだ。「無垢」を表現している。そんな世界を「大人」たちは(なんなら「子ども」たちも)黒く染めて行く。ロングショットで撮られるそうした風景は、こちらを突き放す。あたかも世界と主人公たちの距離が離れているかのように。彼らは遂に「無垢」であった長閑な生活を取り戻すことは出来ないのだ。いや、元々出来なかったのかもしれない。それが露呈したのだ、と。

「罪」と「赦し」もまた重要なテーマだろう。それが先ほどの「黒」と「白」の関係とどうシンクロするかは既に書いた。「罪」を「罪」として認められる/赦されることはなく、改心を迫られる。秘めていた秘密は暴かれる。「黒」が「白」と好対照を為す色、つまり対極にある色であることを考えれば自ずと監督の戦略は見えて来るのではないか。ベタな解釈だろうか。そうかもしれない。主人公も結局は第一次世界大戦を経験し、ナチスドイツの支配下でそれこそ「罪」を背負わされること(とまで書くと極端ならば、決して「無垢」ではあり得なかった、「グレーゾーン」を何処までも生きる存在だったこと)がエンディングで示唆される。

サスペンス/ヒューマンドラマとしては立派に出来ている。途中のラブロマンスも皮肉が効いていて微笑ましい。淡々と(『隠された記憶』のような殺人こそなけれど)首吊りや川への突き落とし等などを、センセーショナルになることなく描き切って迫力を示していることは流石である。私は『隠された記憶』に見られた「ミステリ」を期待したので、途中に挿入された大人たちの「欺瞞」そのものを描いた「ラブロマンス」が余計に感じられたのかもしれない。むろん、そういう描写も必要だったことはエンディングで分かる。だから、ここからは好みの問題だろう。

例えばデヴィッド・フィンチャー『ゾディアック』のような作品を想起しながら観たのだけれど、『ゾディアック』も観直さないと分からないけれど全体に緊張感を漂わせ、実験的なことこそさほど(あくまで「さほど」)行われていないことは確かなのだけれど映像美も美しい。迫力がある。その意味で、『隠された記憶』の達成を知っている者としては「惜しい」と思ってしまった。駄作だとは言わない。「傑作」と呼ぶことを躊躇わない。だが、それに関して留保させられる理由は既に述べた。ここから先は二度目の鑑賞で見落としてしまった部分をハッキリさせないと行けないだろう。

個人的にツボだったのはドクターが助産婦に冷酷な言葉を投げ掛けるところだ。人間の嫌な部分を描かせたらハネケは天才的に巧い。その「嫌な部分」はこの映画自体にも瀰漫している。『隠された記憶』がそうであったように。だからここからは本当に「好みの問題」である。こんな駄文に惑わされず、出来れば『隠された記憶』と一緒に観て欲しい。暴力シーンも一見すると冷淡なようで、リアリティがある。それもまた確かなので悩ましいのだった。興味深い映画を観てしまったものだ。