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踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

塩田明彦『害虫』

創作のような日常
害虫 スペシャル・エディション [DVD]

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塩田明彦監督『害虫』。二度目の鑑賞になる。記録をするのは一度目。例に依って肝腎な部分をすっかり忘れてしまっていたことに気がついた。ネタを割ることにする。

肝腎な部分とはなにか。それはこの映画が「破壊」をめぐる物語であるということだ。いや、石川浩司氏が火炎瓶で家に火をつけて「破壊」する場面くらいは覚えていた(見事な演技だ!)。だが冒頭の主人公の母親の自殺未遂(これもまた「自己破壊」だろう)から始まり、主人公が電球を金槌で割る場面にも「破壊」は示されている。秩序を「破壊」する物語……そう受け取ることが出来る映画だと思う。それはそして、学校という紛れもなく「秩序」が成り立っている空間で主人公が順応せず(出来ず?)「破壊」を行うことに依っても反復されよう。

それだけではなく、当たり屋としてカネを稼ぐ男も「破壊」を行っているのだった。これをどう捉えるか。この映画では「男」は積極的に/対外的に「破壊」を行っているのではないかと考えた。いや、命を落としかねない行為は「自己破壊」かもしれない。つまり内向きの「破壊」である、と。だから無理のある解釈かもしれないが、石川浩司氏が前述した「破壊」――カエルを爆破させたり、家に火をつけたり――を積極的に行う場面は彼らがアウトサイダーであることを意味するのではないか。だから主人公の仮初の父となる男が主人公をレイプしそうにする(これも「破壊」だ)ことも当然と言えば当然なのだった。

だからこそ、主人公はその「秩序」を最初は穏やかに乱す。整然と並んでいる机の列を乱すという形で。次第にその行為はエスカレートして行き、先述した石川浩司氏の「破壊」行為に共犯として参加するという成り行きになるのである。彼女が最終的にどんな選択を選んだかまでは書かないが、受け取りようは異なるだろう。彼女は「自己破壊」を選んだのか? それとも積極的に「破壊」を目論んだのか? それに依ってこの映画の評価は異なって来るはずだ。

……とまあ、「スジ」の話しか出来ないのが私の限界なのだった。映像面での美しさも語らねばならないが(宮崎あおい氏と蒼井優氏のチャーミングさは語るまでもないだろう)、それについて詳述出来ないのがもどかしい。雨や雪を肝腎な部分で降らせる演出とか、廃墟から見上げた青空とかあるいは炎に包まれた家屋とか、見どころはある。ただ火炎瓶があんなに遠く飛ぶかとか、あるいはガソリンではなく石油を使うべきではなかったか……とかそういう部分も気になる。これに関しては他の方の意見を拝聴したいところだ。