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踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』

創作のような日常

ネタを割る。

アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督は「何故」この映画をあたかもワンカットで撮っているかのように撮影したのだろう? と思いながら観てしまった。同じような試みを行った映画としては白石晃士『ある優しき殺人者の記録』があるが、あの作品はスリル溢れる密室劇を基本的に撮影したかったからあの手法を選んだのだということは観ていれば良く分かる。だから、そんなスリルではなく(全くスリリングでない、というわけではないのだが)むしろヒューマンドラマとしての側面を際立たせたこの映画に関してはそこが疑問でしょうがなかった。何故このような撮り方をしているのか?

アモーレス・ペロス』、『21グラム』そして『BABEL』に至るギジェルモ・アリアガと組んだ三作はマルチスレッドとして、つまり群像劇として描かれねばならなかった。数少ない接点で交差する人々、そしてすれ違ってしまう人々の話をドラマティックに描くために脚本は複雑なものにならざるを得なかった。それは分かるのだ。そして『BIUTIFUL』ではそういう複雑な脚本をベースに撮るという選択肢を捨て、オーソドックスに「社会派」としての要素を取り入れて絶望的なスジの話に説得力を盛り込むべく多様な情報を盛り込んでいた。これもまた創意工夫の産物だろう。

イニャリトゥ監督がそうした「語り口」について今時誠実過ぎるほど誠実に「戦略」を練る人物であることは間違いがない。では「何故」擬似的にワンカットで撮ったかのような仕掛けを施したのか。その「疑似」がポイントではないかと私は睨んでしまった。つまり、「偽物」(と敢えて書く)の撮影をあたかも「本物」のワンカットの撮影として、ギリギリまでリアルに近づけたかったという動機があったのではないか、と睨んだのだ。偽物を本物に近づけること。そこには「嘘」や「虚構」がついて回る。真実ではないものを混ぜ込まなくてはならなくなる。

この映画に関しては――いつもながらスジの話しか出来ないのだが――主人公が落ち目の映画スターであることがその「嘘」や「虚構」を際立たせている。彼はレイモンド・カーヴァーの小説を脚色して自らの手でこだわり演劇を行おうとするが、演じることそれ自体が「嘘」や「虚構」の成せる業であることは言うまでもない。言うまでもないが、我々は生々しい暴力をスクリーンや舞台上で目撃するわけではない。そこにはどうしても「フェイク」がつき纏う。その「フェイク」――「嘘」や「虚構」――が交えられていることに自覚的に成り立たせられているからこそそのような撮り方をしたのではないか、と思ったのだ。

そう思ってこの映画を観れば様々な場面で「嘘」や「虚構」、つまり「フェイク」が仕込まれていることが分かる。主人公のためを思って、あるいは主人公のためにつく「嘘」。もしくは主人公が保身のためにつく「嘘」。主人公自体『バードマン』というヒットしたシリーズ物の主人公の役柄を脱ぎ捨てられず、それどころかそういうプライドが「フェイク」としての自分自身に幻聴として(つまり、「嘘」「虚構」が迫り来る言葉として)訪れることもハッキリしているだろう。この映画はそういう「真実」と「フェイク」の対立が明確に/明快に示されているのだ。それを誰でも分かるように撮っていることにイニャリトゥ監督の意志を私は見て取った。彼らが「真実か挑戦か」という二者択一のゲームを行うのは実に示唆的だ。

つまり、登場人物が行う演技――それは映画の中でのベタな演技だけではなく彼らがステージに上って行う「演技」、つまり作中作の演技も意味する――がどういうことを意味するのかを象徴しているのではないか、と。「演技」の特性についてはもう書いた。舞台上で銃が取り出されていてもそれが本物だとは誰もが思うまい。ここでネタを割れば、主人公はとある選択により「本物」の銃を手にする。その銃はもちろん発射されるので、観ていてネタの割れた手品を鑑賞しているような予定調和っぽさというか既視感が拭えなかったのだが、瑕瑾に過ぎない。ともあれ彼らはギリギリの本物まで肉薄するのだ。そこまで追い詰められて行く。その様は先に述べたことと矛盾するが、演技で引っ張って行くだけあって実にスリリングだ。

逆に言えばその撮り方において分かりやすく「これは『疑似』ワンカットですよ」と提示させるわざとらしさを(あからさまに?)示したこと。それが上述するイニャリトゥ監督の「戦略」「誠実さ」を表しているのではないか、と。ただ、そうなるとこの語り口で良かったのかどうかという疑問も感じられる。理由は簡単で、あまりにも「分かりやすい」「わざとらしい」からである。予定調和的なスジ……先が読めない、という類の劇ではないのだ。この映画について整理してしまうとそのあたりでつまらないものになってしまう。落ち目の映画スターが演劇界で復活しようと足掻き、もうひとりの自分を殺す話……これ自体は構成としても面白くもなんともない。だから故に/だからこそ撮影技法に「凝った」あるいは「淫した」のではないか、と。

作品に依って、あくまで俳優の演技の旨味を活かしながら「戦略」を次々と変えて行く監督の姿勢、良く言えばクレヴァーで悪く言えば計算高いところはどう評価するか、割れるだろう。私自身は折角このカメラワークに挑んだのであれば、俳優を背中から舐めるように撮るだけではなくデヴィッド・フィンチャーパニック・ルーム』的な遊び心が欲しいと思ってしまったのだが贅沢に過ぎるだろうか。私自身はなんだかんだで楽しませて貰ったが、この映画を傑作と思うか否かでなんとも判断し難い。そのクレヴァーさ、つまり頭でっかちなところが悪く出ているとも受け取れる。感動に一歩足りないのだ。良く出来た達者な映画ではあっても、それ以上のことは伝わりにくい……と。

むろん、映画の観衆が私のような擦れっ枯らしで硬直したセンスの持ち主ばかりではあるまい。このスジを基本的に「再生」の話として――彼は「ネット」の中で少しずつではあるが存在感を取り戻して行くのだ――捉えることも出来るだろう。そう素直に感動出来るかどうかが踏み絵になるのは間違いない。私は素直になれなかった。それが私の限界なのかもしれない。あるいは、「真実」だとしても(主人公の持っているレイモンド・カーヴァーからの手紙を貶す場面に現れているように)そんな「真実」など大したことがないとも言えるので、それも難しい問いになる。

実はほんの少しだけ観たら中断するくらいのつもりでネトフリで観てしまったのだが、最後まで惹きつけられた。それは認めるに吝かではない。『BIUTIFUL』のような素朴な感動やそれ以前の三作のような奇想天外さを求めれば空振りに終わるかもしれないが、新しい挑戦を果敢に行っていること自体は評価したい。だから個人的な好みの問題として言えば、傑作だとは思えなかった。とは言え野心的な試みを行い、それをきっちり成果に結びつけた――悪く言えばその分「ぬるい」とも言える――作品であることは確かだと思う。これは『レヴェナント』も楽しみだ。