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踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

田中慎弥『孤独論』

孤独論: 逃げよ、生きよ

孤独論: 逃げよ、生きよ

 

なんだか Twitter をやっているのが虚しくなるような気がすることがある。何故虚しいのだろうか。これについてニコラス・G・カー『ウェブに夢見るバカ』という本を読んであれこれ考えているところに、田中慎弥氏のこの書物が現れた。小著だがこの本はなかなか面白いと思った。不勉強にして田中慎弥氏の著作を読むのもこれが初めてで、『共喰い』さえ読んだことがない有様なのだけれど確かに「孤高」を貫き続ける氏の姿勢に凛々しさを感じさせられたのだった。聞くところに依ると氏はネットとは無縁に(スマホもパソコンも持たず)暮しているらしい。それが性分に合うからなのだそうだ。こんな偏屈な人物の(失礼!)書く小説とはどんなものなのか、もっと読んでみたくなった。

本書で推奨されているのはひと口で言えば自分を取り戻そうという姿勢だ。それは奴隷化を強いる仕事や学校を疑い、必要だと言うのであればそこから「逃げ」る。そして「生き」る。流行りの言葉を使えば「自分のアタマで考える」ということだ。社会は制度に従順であれ、組織に対して従順であれと強いて来る。個人が口出しをする余地はそこには残されていない(かのように見える)。社会の言いなりになり思考を放棄して生きればラクだから、必然的に人は奴隷の立場に堕してしまう。そうなっては行けない、と田中氏は語る。そういった組織を相対化し、自分なりに価値のある「なにか」を探す。それは子どもの頃の夢の延長上にあるもの(プロ野球選手やサッカー選手に纏わるもの、等など)かもしれない。子どもじみたものかもしれないが、そこは現実的に考慮して選手になれないのならせめてそういった要素と関連のある仕事を探せば良い、と氏は説く。

氏はネット社会にも異を唱える。もちろんネットそれ自体を批判することはない。ネットが私たちの生活を豊かにしている(側面もある)こと。それは氏も認めている。だからこそ SNS の友だちの数の多さを競い、人と馴れ合う人々が増えることに氏は異論を発している。もっと「孤独」になること、辛い「孤独」に耐えて強靭な神経を身につけること、熟考を行うこと……こうした見解が極めて平たく語られる(本書は「語り下ろし」を基礎として構成されている)。読みながら自分が何故 Twitter などのメディアに触れて辛い思いをしてしまうのかも分かったような気がした。そうしたネットでの余計な情報、それにいちいち振り回されてしまうストレスがこちらを苦しめるのだ……と。ではこの「孤独」に耐えるための営みとはなんなのか。

氏は「読書」の重要性を唱えている。こんな時代に読書なんて……と思われるかもしれない。だが、だからこそ本を読み言葉を己の中に蓄えることを推奨している。読んだからどうなるのか、それよりプログラミングの勉強をした方が有意義ではないか……という(それはそれで間違っていない)批判を踏まえた上で、氏は語る。読書は無駄かもしれない。直接役に立つことは書かれていないのかもしれない。内容が良く分からないことだってあるかもしれない。だが、それであっても他者や多様な価値観の存在する世界を知ることは重要なことなのだ、と。それならゲームでも映画でも良いようなものだが、重要なことはそういった営みを、我々が物事を考えるにあたって使っている「言葉」を使ってやることなのだ、そこに意義がある、と氏は語る。

コンパクトで読みやすい書物なのだけれど、惜しいことに本書は著者の社会経験のなさから来る具体的な生々しさを欠いている。つまり、仕事観に関して何処か抽象的……というより(取り敢えずは小説家ではない)こちらの仕事に関する考え方をドラスティックに変えるところまでは結びついていないように思われるのである。これでは数多とある、社会経験に依って揉まれた人々の自己啓発本に太刀打ち出来まい。もう少し著者の引きこもり時代を露悪的に語り、そして作家修業としてどのようなことをやって来たのかをつぶさに書いた方が良かったのではないか。引きこもり時代に氏がどのようなことに悩み(あるいは悩まず)、どのように対処して来たか……あまり使いたくない言葉だが、これでは田中氏のキャラが立たないだろう。あの露悪的な「もらっといてやる」的な言葉をもっと聞きたかった。

……と、ここまで書いて考えた。逆なのかもしれない。「もらっといてやる」という田中氏の古臭いイメージを一新させるためにこそ本書は読まれなければならないのかもしれない。本書の人生観や読書論は、氏を「無頼派」とも「破滅型」とも呼びかねる収まりの悪さに似合っている。本書をどう整理しようとしてもそう安直に/一筋縄では行かないその収まりの悪さをこそ賞味すべきものなのではないか、と。ここで私の考えは止まってしまうのだった。良い意味でも悪い意味でも本書は「曲者」なのだ。それは文壇で孤立している氏の姿勢と釣り合っているように思われる。そのあたりをどう受け止めるか。その判断は読者に委ねられている……と曖昧なことを書いて締め括りたい。