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踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

ケン・ローチ『SWEET SIXTEEN』

SWEET SIXTEEN [DVD]

SWEET SIXTEEN [DVD]

 

ケン・ローチ監督『SWEET SIXTEEN』を観た。凄まじい映画を観てしまったと圧倒させられた。実は二度目の鑑賞になるが、この映画を舐めて掛かっていたことを恥じた。肝腎な場面をすっかり忘れていたのだ。

肝腎な場面とはなにかを語らなければならないが、だがその前にスジを整理しておこう。単純と言えば単純な話だ。もうすぐ十六歳を迎える貧困家庭に生まれた少年が、収監されている母の恋人の男にいたぶられながら、そしてその貧困から這い上がろうとする姉とは対照的に裏社会にハマり込んで行くというものだ。良かれ悪しかれ愚直なケン・ローチらしいアプローチであるとも言える。イギリス/スコットランドの政治/現実をリアルに炙り出し、こちらに訴え掛ける類のものだ。

だが、それだけならここまで「凄まじい」とは思わなかっただろう。個人的にはケン・ローチ監督に関してはさほど良い印象を抱いていなかったので(例えば『天使の分け前』や『エリックを探して』などのコメディは個人的には観ていてキツかった)、この映画もそれほど前のめりには観られず「イギリスの事情を知らない人間には分からない映画なのではないか……」と思っていたのだった。つまり、ストーリーに国境を超える普遍性がない、と。ドメスティックな映画であり、言葉や文化の壁を越えられないのではないか、と。それが間違いであったことはこれから説明して行く。

幸か不幸か、ブレイディみかこ氏の著作を読んで彼の国の政治状況について勉強してしまったので――裏返せばその程度の知識を付け焼き刃的に備えているだけなのだが――なるほど現地の悲惨さは生々しく描かれているなと思った。貧困の連鎖、暴力、ドラッグの密売などに代表される裏社会等など。この映画は北野武キッズ・リターン』を意識して作られたそうだが、なるほどそれは分かる。主人公にピンボールというアダ名(なのだろう。まさか実名ではあるまい)の親友がついて回ることは『キッズ・リターン』に似通っている。裏社会に主人公がハマり込む構図もそっくりだ。

だが、それだけなら(「パクリ」とまでは言わないが)結局陳腐な映画であり『キッズ・リターン』には敵わないなと思ってしまっただろう。この映画は、『キッズ・リターン』が描かなかった(描けなかった?)ことまで描いている。『キッズ・リターン』の方がスジとしてのみ単純過ぎると思われるくらいに――むろん、『キッズ・リターン』も優れた映画であることは認めるが――丁寧にこの映画は人間関係を生々しく描いている。それ故に前のめりになって観てしまったのだった。単なる猿真似ではあるまい。

ではどう感じたのか。スジが単純であることは既に書いた。主人公が社会事情に依って堕ちて行く(あるいは成り上がる)話である。それ故に普遍性を備えているとも言える。分かりやすいのだ。『キッズ・リターン』は社会事情まで描かなかった。むしろ人間ドラマをこそ明快に描いていたのだった。北野武氏の映画は基本的には「社会派」には分類され得ないだろう。それ故に、その社会事情に依存し過ぎることがないが故に、彼の映画は普遍的なのではないかと思ってしまったのだ。つまり北野氏の映画はその構造の単純さ/明快さにおいてこそ、異国の人間を構えさせないからこそ――これが皮肉に聞こえないことを祈りたいが――優れているのではないか、と。

ケン・ローチ監督は「社会派」だ。イギリス/スコットランドの社会事情をどう描いているかは既に語った。『キッズ・リターン』の主人公たちの置かれている環境よりももっと深刻に、彼の国の政治状況や文化を描き切っている。良かれ悪しかれ、ケン・ローチ監督は『キッズ・リターン』が持っていたコミカルさを捨てたようだ(それは私は正解だと思う)。だからこそ生まれる生々しさがある。暴力沙汰も殺傷も数多とある映画と比べれば地味なものだが、その分「リアル」だとも言える。ここで評価が別れるかもしれない。

肝腎な場面とはなにかについて書かなければならないだろう。それは、主人公のリアムが望遠鏡で星空を見上げる場面である。彼が置かれている環境をその場面は、悪く言えばかなりベタに描いている。どん底の地平から空を見上げる行為はそのまま、リアムが挑んで行く「成り上がり」を象徴している。星空/上に憧れる少年の姿を描いていると評価出来るのではないか。そのあたりをすっかり忘れてしまっていたのだった。恥じねばならない。これは『ケス』などを観直す必要があるようだ。ケン・ローチ監督に関しては「社会派」のイメージが強過ぎるので、そうした工夫ではなく彼が「社会」「問題」をどう描いているかに気を取られてしまうのだった。

彼らは例えば双眼鏡で、母の恋人の男であるスタンの姿を眺める。これもまた「ガラス」を通してものを見るという構図が成り立っている。星空を見上げていた望遠鏡がまさに「ガラス」を通してものを見る手段であるが故に――だからこそスタンの味方であるスタンの父親が(ではないかと思ったのだが)その望遠鏡を「破壊」してしまったことがこの映画の悲劇性を成り立たせるが故に――彼の見る「現実」「社会」のあり方をくっきり照らし出しているのにも似ている。双眼鏡もまた「ガラス」越しに「世界」を眺める手法なのだった。

「ガラス」越しの「世界」……だからこそこの映画で例えば主人公たちはその「ガラス」を割るのだった。スタンの父親が主人公を見下ろしている/見下している窓ガラスをリアムは「割る」。それは彼らの決定的な決別を意味するだろう。そしてその「ガラス」を「割る」という行為は例えば主人公とピンボールが通うようになるスポーツジム(?)の「ガラス」を、まさにピンボールが車ごと突っ込むことによって「割る」ことに依っても反復される。彼らはこの行為が動機となって文字通り「決別」するのだった。それがどういうことかまでは書くまい。

主人公が「ガラス」越しに「世界」を見ている……それは例えば車を彼らが乗り回すことも示されているのではないか。基本的には車の「ガラス」越しに世界を彼らは眺めるわけだ(開けてある場面はなかったはずだが……)。「ガラス」を擦り抜けて/破壊せずに「世界」に手を伸ばすことは基本的には不可能だ。やるとするなら「破壊」しかない。主人公が母親と一緒に暮らすことに決めた「窓ガラス」越しの「世界」が結局は手の届かないものであるように、彼らは遂に憧れていた「現実」には触れ得ないのだ。

だからこそラスト・シーンは際立って来る。どういう展開までは書かないが、主人公のリアムはある決断を行う。そして彼は「ガラス」越しに眺めていた海辺に立つのである。それは彼が何処にも行き場をなくしてしまった状況とシンクロしているようにも感じられる。彼は憧れていた「現実」に――海辺に立つ場面は二度目なのでこの解釈は無理があるかもしれないが――触れたのだ。だが、彼は結局は彼の母親が収監されていた場所に行くことになるのではないか。彼の母親が彼と生々しく、「ガラス」を介さずに面会していたことはその意味で深読みを誘う。彼は「現実」の母親に触れていたのだ。

これもまた監督の計算だとまでは言わない。強引にこじつけた解釈となる。主人公は「現実」に触れた。その瞬間を肌身に触れて感じただろう。だからこそ結局最後の場面は悲劇として見事に成立しているのである。私はこの場面以降のリアムの姿を想像してしまった。彼が行った行為は結局は母親や姉と過ごしていた「現実」と隔離された、「ガラス」の向こうの刑務所に彼を追いやるのではないか、と……そのような余韻を残してこの映画は終わる。彼が行ったことは彼の自由意志に依るものなのか? それとも社会状況がそうさせたのか? 極めて重い問いにぶち当たってしまうのである。

むろん、そのような「問い」を考えずとも、あるいはその「問い」だけにこだわってこの映画を観ることは出来る。私は「問い」にこだわり過ぎててしまった。結局は最終的には社会的に成り上がることに成功した主人公の姉と、それと対照を成して堕ちてしまう主人公の落差に依存し過ぎているとも言える。つまり、スジ/構図が「ベタ」過ぎるとも受け取れるのだ。上昇志向と墜落(あるいは「ワル」としての成功?)を描いたものとして。そこで評価は割れるだろう。私は上述した工夫――繰り返すが、何処まで計算されたものかまでは分からないが――故に前のめりに観てしまったが、評価は割れるだろう。結局「ガラス」越しの人間関係や世界観が遂に相手/対象に対して届かないのと同じように。

これ以上のことは書けない。彼らが乗り回す「車」や「バイク」にも、例えば『キッズ・リターン』の自転車のような重い意味(あるいは見事な場面作り)を見出すことも出来るのだろうが、これが私の限界である。いや、興味深い映画を観てしまったものだ。