踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

李相日『BORDER LINE』

BORDER LINE [DVD]

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李相日監督『BORDER LINE』。一度目。悩んだが、ネタを割ることにする。

李相日監督の作品は不勉強にして『69 sixty nine』と『悪人』程度しか観ていないのだが(『怒り』は「必ず」観るつもり)、監督の群像劇/マルチスレッドに対するこだわりは本作でも良く伝わって来た。群像劇は誰かを主人公にしないので、勢い登場人物の誰に感情移入するか解釈が分かれる。つまり、それだけ同じ話を共有出来なくなる。雑駁に言えば単一な解釈が出来ない分混沌として「分かりづらく」なる。その混沌とした話自体を――つまり「世界」自体を――提示したその姿勢は高く買いたい。だから駄作だとは思わない。

だが、この作品に関して私は前のめりに鑑賞することが出来なかった。例えば(これも不勉強を露呈してしまうが)塩田明彦『害虫』『カナリア』といった作品、つまり「子ども」を同じように描いた作品――だからどうしたって「大人」との軋轢を描かざるを得ない――を連想させられながら観たのだが、その二作品に比べて本作がいまいち光って見えなかったのは決して双方のネームヴァリューの問題ではあるまい(これに関しては二作品を観直してみるつもりであり、その必然を感じさせた時点でこの作品は力を備えている)。

では何故前のめりに観られなかったのか。それはこの映画が普遍性を獲得していないところにある。ふたつの意味においてである。ひとつは、この映画が撮られた時期に観ていればまた話は違って来たのかもしれないが、例えば同じ現代風俗を取り入れた同監督の『悪人』が傑作足り得た要因のひとつは、その風俗をきっちり描き切っていたからだろう。この映画ではその「現代風俗」の描き込みがどうも中途半端である。例えばいじめや援交、バタフライナイフや少年犯罪といったトピックを扱っていることは注目に値するが、その取り入れ方においてどうしても(あまりこうした言い方はしたくないが)時流に乗っただけの作品であり、「普遍性」を獲得した作品とは思われない。もっと時代を代表するアイテムや事件を盛り込むべきだったのではないか。

ふたつ目は、やはり登場人物の心理の掘り下げがきっちりしていないところ。何故青年が父親を殺したのか。その動機が生々しく描かれていない。「父殺し」である。美味しく料理しようと思えば幾らだって出来ただろう(ただ単に彼をアウトサイダーとして描きたいのなら、失踪だって良かったわけだ)。これに関しては反論もあるのだろう。「動機のない殺人」だからこそ良いのだ、と。そうなって来ると双方の「価値観」の相違になって来るので、論争は不毛にならざるを得ない(「動機のない殺人」を起こすほどの人間ならむしろもっと主人公を不気味に描くことだって出来たはずだが、そんな「不気味さ」がないフツーの青年だからこそ良いんだ、と言われれば本当にお手上げなのだ)。

青年だけではない。少女の援交も生々しさを描いていない。金銭面の問題なのかそれとも生きづらさを抱えているからなのか、そのあたりがどうもはっきりしない(そういう映画を宮台真司氏が褒めていることはなかなか興味深い)。例えばリスカを挿入してみればどうか。安直な発想ではあるだろうが、生々しさが浮き立つのもまた事実である。それがないせいで(さっきも書いたが、「それがない」から良いという意見も分かるので)、どうにも中途半端な感が拭えない。ヤクザの裏社会の描かれ方も、リストラも(前者に関しては北野武キッズ・リターン』が、後者に関しては黒沢清トウキョウソナタ』が見事な成功を見せていたが)どうもデーハーではない。

「デーハーではない」……だからこそ良いのだ、という意見も分かるのでここで話が終わってしまうのだった。後の監督の作品もきちんとフォロー出来ていないのでなんとも言いかねるが、むしろ当時の風俗を積極的に導入することに前のめりだったのが李相日監督なのではないか。風俗を社会問題と結びつけて炙り出す……『69 sixty nine』と『悪人』はそれを試みていた(前者に関してだけ述べれば、村上龍氏の作品を読んでいたので、あまり成功していたという印象は感じなかった。主体となる主人公の内的な/爆発するモノローグの魅力が――さしものクドカンの脚本であっても――損なわれているように思ったのだ。それはそのまま、この映画の欠点にもなる)。

だからこそ悩ましいのである。私が単に(それは誰でも良いのだが……ポール・トーマス・アンダーソンマグノリア』でも良いのだが)「群像劇」に慣れていないからこそ(デミアン・チャゼル『ラ・ラ・ランド』を理解出来なかった理由が結局はミュージカルに関する私の側の致命的な無知故であるのと同じように)、この映画を楽しめなかったのだと言われればそれまでである。私は「単純な」スジをこそ好んでしまうようなので(逆に言えば分かりにくい/錯綜したスジは私には――発達障害者だからこそなのか――合わないのだった)。

「また会おう」……登場人物たちは幾度か再会を誓う。しかしこの映画は(これはイヤミでもなんでもなく「予想通りに」)再会を果たすことはない。バッドエンドや、あるいは単なる「予感」を示すだけで終わってしまう。だからこそ生まれる切なさというものもあるので、これに関しては積極的な評価をしたい(「今」この映画を撮ろうとすればネット、特にスマホの普及を考えれば不可能だろう)。人と人とは繋がり合っていない……そのすれ違いぶりは見事に描けている。孤独感を抱かせるところは評価したい。だからこそ、「惜しい」と思うのである。その「惜しい」と感じさせる理由は既に書いた。『怒り』に対する期待(と不安)が高まってしまった。

自転車の使い方が巧いなと思った。この映画が例えば北野武キッズ・リターン』を思わせるところはそうした自転車の持ち味を存分に活かしているからであろう。前に進むことしか出来ない乗り物が「自転車」である。後ろに進むことも出来る「自動車」とは違うのだ(もっとも、登場人物のひとりである女性は、後ろから煽られるという形で「前に進む」しかなくなるのだが)。その「自転車」で事故を起こしてしまう青年の事故、並びにヤクザの男が自転車に乗れない事実は興味深い。なんとか現実を乗りこなそうとして巧く行かないことの象徴である……と書けば拡大解釈に過ぎるだろうか。

光る場面もある。青空や、先述した自転車事故の場面。ランドセルを蹴り合う場面、コンビニで屯する青年たちに暴力を振るう場面、コンビニ強盗や銀行強盗、青年の自殺未遂(?)。そう言った場面もないではないのでただ単に「駄作」だとは思わない。だからこそ「惜しい」と思うのだ。その理由も前述した。ただ、どんな映画であっても私は「観る価値がない」とは思わない。李相日監督の「原点」を示す映画としては興味深いのではないか。社会派的なアプローチを試みる監督の野心は高い。だからこそ、また嫌な言葉を使うが野心に技量が追いついていない感は否めない。『悪人』の見事さを考えればこの監督が凡人だとは思われないので、これは「若書き」故の「失敗作」なのだろうと受け留めた。