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踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

たかが「音楽」である――菊地成孔氏の『ラ・ラ・ランド』批判を読んで思ったこと

先日『ラ・ラ・ランド』を思いっ切り批判したのだけれど、それに関して特に炎上もなにも起こらなかった。反論もなにも来なかった。まあそれはそれで良いかとも思った。ブログでメシを食ってるわけでもなんでもないし、ましてや私の映画に関する感想文は(「感想文」以上の駄文ではあり得ないだろう)その程度のものだと思っているので。

incunabula.hatenablog.com

だから、菊地成孔氏の『ラ・ラ・ランド』批判が炎上しているのを読んで、これもこれで「まあそれはそれで良いか」とも思いたくなったのだが(影響力の差、というやつだ)、だが菊地成孔氏の『ラ・ラ・ランド』批判を読んで思ったことを綴るくらいのことはしても良いのではないかと思った。

菊地氏の批判は私自身賛同するところが多い。脚本面でのアラが(それが「ミュージカル」であっても)目立つものである。私はミュージカルに関して無知なので、そのミュージカルとしての側面からの菊地氏の批判がどれくらい正鵠を射ているものなのかまでは分からないが、とある場所で「いやミュージカルとはそういうものなのだ(敢えてキャラが類型的/記号的に振る舞っているのだ)」と説得されて、結局水掛け論で終わってしまった。これは言うまでもないが、私の側の怠慢に由来するところが大きい。もっと勉強しないと行けないな、と思わされたのもまた確かだった。

逆に言えば「ミュージカルを知らない人間は『ラ・ラ・ランド』のようなミュージカルを分かってない」という理屈にもたれ掛かった批評を私は信じない(そういう批評を読んだ、というわけではないし、上述した「説得」がそういうものだったということでもない。そんな論理もあり得るという話だ)。『ラ・ラ・ランド』がミュージカルの伝統に人を誘う映画であることもまた確かだ。音楽面でのクオリティは高いことは認める。監督のセンスも凄いと思う(今時 a-ha 「Take On Me」を流すなんて!)。それは吝かではないのだった。

それと同じようなことを、菊地成孔氏の『ラ・ラ・ランド』批判にも感じたのだった。私はジャズを語れるほど詳しくないが(だから先述した私の批判に対する反応もあり得るかなと思ったし、今でも思っている)、気になったのは菊地氏の選民意識/エリーティズムとでも呼ぶべきものだ。それはこのような表現に現れている。

『ラ・ラ・ランド』程度で喜んでいる人々は、余程の恋愛飢餓で、ミュージカルについて無知で、音楽について無知で、ジャズについては更に無知という4カードが揃っている筈、というかデイミアン・チャゼルの世界観がフィットする人々である。とするのが最も適切だろう。

この「デイミアン・チャゼルの世界観がフィットする人々」に関しては興味深い。『セッション』といい『ラ・ラ・ランド』といい(特に後者)、デミアン・チャゼルの作品の作り方は例えばコーネリアスの『69/96』『FANTASMA』にも似た「監督が膨大なジャンルの知見を自分をフィルターにして、シッチャカメッチャカに融合させた巨大な『趣味』という名の過剰な自意識の産物」だと思っているのだが(だから「彼」に興味が湧く人の方が、「ミュージカル」に興味を示す人よりも多いかもしれない)、そこが『ラ・ラ・ランド』の魅力であり欠点なのかもしれない。捉え方に依る。

それはそれで良いのだけれど、この「音楽について無知」というワードが引っ掛かる。私はそれなりに音楽は聴いているが『ラ・ラ・ランド』はつまらなかった(笑)。これもまあ捉え方の問題だ。だからここで疑問に思うのは、「音楽を知らない人間は『ラ・ラ・ランド』を分かってない」とあたかも語っているかのような菊地氏の姿勢である。こんな語り口は「音楽(むろんジャズも含む)」から人を遠ざけるんじゃないかな、と思ったのだ。

『ラ・ラ・ランド』は私にとってつまらない出来なのは前にも書いたが、音楽に人を誘う人間が生まれること、それこそ『セッション』と並んで「ジャズ」を聴きたくさせるスリリングな作品であったことは確かだ(だが、例えば村上春樹1Q84』の影響でヤナーチェクチェーホフに触れたくなってもそれ以上クラシカル・ミュージックやロシア文学をディグらないのと同じ風潮は生まれるかもしれないが)。その意味でまだしも、菊地氏の批判よりは『ラ・ラ・ランド』の万人に開かれた姿勢を愛したい。あれだけの賛辞を呼んだのだ。それは「買い」だろう。

バカでも分かる……と書けば聞こえは悪いが、誰にでも楽しめる芸術として、なおかつ奥行きも深く作ってある(分かる人には分かる符牒があちらこちらに散りばめてある)エンターテイメント性の高いものとして『ラ・ラ・ランド』は優れている。そういうオープンな姿勢をこそ私はなにはともあれ支持したい。従って菊地氏の批判は閉鎖的である。悪く言えば蛸壺の中に人を閉じ込めるものである。かつて「お前は映画を分かってない」と散々抑圧されて映画嫌いに陥った私としては賛同し難い。菊地氏の批判的な口調は非生産的である。『ラ・ラ・ランド』が映画に(「ジャズに」とまでは言わないが)人を誘ったのとは好対照である。

敢えて言う。なにが悪い。「たかが」音楽である。菊地氏がミリオンセラーを叩き出す中田ヤスタカ氏のような、お茶の間に自身の音楽を広めたミュージシャンなら考えるがそうではあるまい。むろん、真に革新的な表現は「誰にでも楽しめる」ものではあるまい。ビートルズだってピストルズだって賛否両論だった。違和感を抱かせるものではあっただろう。だが、彼らに対する批判が逆説的に「ロックはかくあるべき」という古臭い伝統を炙り出してしまったように、『ラ・ラ・ランド』批判は菊地氏の了見の狭い「音楽」観を露わにしているように思う。