踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

中島哲也『渇き。』

問題作だと思った。受け容れられる人と受け容れられない人の差が激しく割れるのかもしれない、と。

この映画は従来の映画の撮り方に慣れてしまった者からすれば「邪道」そのものだろう。例えばアニメーションの取り入れ方やポップな映像の小細工、カメラワークや演出面での「実験」が目立つのだ。例えば堤幸彦作品にも似ているが、良かれ悪しかれこの作品は例えば『イニシエーション・ラブ』のようなミステリよりも過激だ。映像に詰め込まれた情報量の過多から来る欠点、というのもある。

私は中島哲也氏の監督作品は『告白』しか観ていないという体たらくなのだけれど、『告白』でもそう言ったカメラワークや演出面での遊びは過剰だった。やり過ぎ、と言えるのかもしれない。私は『告白』を面白く観たのでこの映画を楽しみに観たのだけれど、期待が高過ぎたのかやや肩透かしを食らった感もないではない。これは是非『下妻物語』や『嫌われ松子の一生』を観てみたいところである。

気になったのは、やはり登場人物たちのキャラクターの造形が薄っぺらいことだろう。登場人物を演じる俳優は叫ぶか呟くか、そのどちらかしかさせて貰ってないように感じられる。過度なリアクションに依存し過ぎているので「戯画的」にも感じられるのだ。そのフラットさが「現代的」なのだというのであれば私は口を噤むしかない。だからここで好みの差がハッキリするのだろう。

では肝腎のストーリーはどうか。原作は不勉強にして読んでいないのだけれど、『告白』と同じくミステリ(イヤミス?)として成立している立派なものなのかもしれない。それをどの程度に原作に忠実に撮ったのかもちろん私には分からないが、だがこの映画を観る限りでは相当に手を加えてしまったのではないか。先にも書いた人物造形のフラットさ、悪く言えば「人間が描けていない」ことから生まれるドラマ自体の謎めいた構成をよりトリッキーにしているとも解釈出来るので、ここでも判断は割れる。

私が気になったのは、この映画は極めてヴァイオレンスが多いことだ。銃やバットやナイフを使って相手を痛めつける。臓物が飛び出すシーンもある(ので未見の方は要注意!)。だが、そのヴァイオレンスがどうも生々しくない。例えば、デタラメに例を挙げれば北野武『BROTHER』のワンシーンを思い出そう。あの映画で大杉漣氏が自らの腹を文字通り切った場面は生々しさがあった。では何故このような「生々しくない」印象を受けるのか。それはやはり上述した現実の「戯画化」の激しさ故のことだろう。良かれ悪しかれ漫画的なのだ。

ただ、ストーリーラインはどうか。『告白』はやはり「戯画」的な(悪く言えば嘘臭い)話だった。誇張が目立った。『渇き。』にも言えることだがいじめの描き方も通り一遍という感じだった。つまりこちらに「このいじめは生々しいな……」と感じさせる余地がないのだ。リアリティを欠く。その物足りなさを補って余りあるのがストーリーの意外な展開だった。先述したように、登場人物の動機にも深みはなくキャラも機械的に描いているからこそ生まれるトリッキーな面白さがあったことは確かだ。これは観直してみないと分からないが。

『渇き。』でもその「戯画」は目立つ。ただ、誰かに対する復讐劇といった形でストーリーが「比較的」シンプルに展開して行く『告白』と比べて、この作品は過去と現在をカットバック(?)させる構図になっている。ストーリーが複雑なのだ。手を変え品を変えある事件を別々の登場人物に語らせながら(あくまで「比較的」にだが)明快に展開する『告白』と比べるとこの映画は説明が丁寧ではない。どんな話なのか混乱するところがある。これは私の読解力のなさを露呈しているのかもしれないが、不親切なものだと感じられたことは確かだ。

つまり、脚本はかなり練り上げられている。凝った語らせ方をしている。それは分かるのだけれど、主題が基礎的にはサイコパス的な「とある人物の心理の不透明さ」であることを語らんとするシンプルさを、その凝った脚本が己の語り口に淫しているようにも見える。単純に語れる話を「わざわざ」複雑に描いてみた、という以上の達成が見えづらいのだ。いや、そう凝って描くことでより効果的に「不透明さ」を炙り出そうとしたのかもしれないが、その試みは上述したキャラの平板さを打ち消しているように思われる。つまり「心理を読めない人物」、この作品のキーとなるキャラの不気味さが浮き立っていないように思うのだ。

また、現代風俗の取り入れ方はどうか? なるほどいじめや未成年の売春、ドラッグの密売などの暗黒面を描かんとしている試み自体は評価したいが、どうも上述してきた「戯画化」故なのか、こちらの想像の域を出ない。「想定外」の要素がないように感じられる。私たちの普段接するニュースやドキュメンタリーで知られる事実以上のものを描いていない。むろん、社会派としての映画は逆にその「既成事実」をこそ丁寧に生々しく描くことで、既視感を覚えさせながらもこちらを惹きつけて行くものなのだろう。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ『BIUTIFUL』なんかがそういう映画だ。

だが、情報というか設定自体が「既視感」が漂うものであることからくる弱み――つまり汗の匂いのしない平板さ――と上述したキャラの平板さが相乗効果を伴ってこの映画をさらにのっぺりしたものにしているように感じられる。『告白』ではまだしも「そう来るか!」という意外性があったのだが、原作に依存しているからなのかまでは読んでみないと分からないがその「意外性」に欠けるきらいがある。このあたりも評価が割れるだろう。

だから、この映画は踏み絵なのだ。私はなんだかんだ言って面白く観させて貰ったが、これが嫌いだという方も居ることは分かる。キャラの平板さや設定の深みのなさを否定的に捉える方も居られるだろう。私自身も手放しで絶賛したいとは思わない。そのキャラ造形や設定の平板さ故に、ポップな意匠の過剰さ故に批判する方もあるいは……と。私はこの映画を踏めなかったが、それが観衆として健全なことなのかどうかは分からない。

最後にネタを割らないように語れば、この映画は基礎的にはサイコパスの万能感、つまり「自由意志」というやつでモラルを破る人物の話なのだろうと思う。いや、古典的なミステリの一部だってそうなのだろうが、その「自由意志」を抱いた人物の不気味さを橋本愛氏は精一杯演じているように思われた。だが、その「自由意志」を備えた人物(「超人」?)が浮き立つような話、メカニカルな話ではなくヒューマンドラマとして描かれていればと惜しく思わなくもない。ただ、このフラットさこそが中島哲也監督の持ち味なのだと言われればお手上げなのである。こちらを試すような厳しい映画と出会ってしまったと思わされた。