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踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

デミアン・チャゼル『ラ・ラ・ランド』批判――汗の匂いのしないジャズについて

創作のような日常
FOR NOTHING

FOR NOTHING

 

デミアン・チャゼル『ラ・ラ・ランド』を観た。結論から言おう。「超」つまらない映画だった。気持ち悪さすら感じられる、子どもじみた映画だった。


「ラ・ラ・ランド」本予告

何処が気持ち悪かったのか。それはこの映画において俳優が「演技」をしていないところにある。宮台真司氏に倣って言えば「表出」はしている。にこやかな表情を浮かべていれば楽しそうだし、楽しい時は笑っている。それは確かだが、それ以上のものは行っていない。表現が何処までも記号的過ぎるのだ。悪い意味でアニメ的、と言えるのかもしれない。

私はエマ・ストーンの映画を観ていないが(不勉強なもので)、ライアン・ゴズリングに関して言えばニコラス・ウィンディング・レフンと組んだ『ドライヴ』『オンリー・ゴッド』は観ている。あの映画では――どんな映画でもそうなのだが――ライアン・ゴズリングは無表情であっても内側に秘めた感情を(それは怒り、悲しみ、喜びなど多彩なものだ)「表現」していた。表情の裏側にある感情を、表情に頼らず「演技」で魅せること。『ラ・ラ・ランド』にはそう言った「裏側にある感情」がないのだ。複雑さを欠いた単純な「表出」。その意味で彼らがアカデミー賞を「俳優」として受賞したことはなにかの悪い冗談としか思えない。あるいは彼らがあまりにもアンドロイドのように演技をすることに同情票が集まったとしか思えない。

設定だってそうだ。『セッション』を観た時に思ったのだけれど、「『何故』こいつはドラマーとして修練を積むのだろう?」という肝腎要な設定が描かれていないのだ。理不尽なしごき/苛めにつき合わされているだけであって(最後の最後はその意味で見事な「セッション」にはなるのだが)、そのしごき/苛めの凄まじさは確かに伝わって来るのだけれど「何故」を省いている分説得力を欠く。『セッション』が今ひとつ心に響かなかったのは劇場でではなく DVD で観たからだろうなと思っていたのだけれど、この『ラ・ラ・ランド』を観る限りではそうでもなさそうだ。

つまり、『ラ・ラ・ランド』の登場人物たちは人物造形があまりにも浅過ぎる。例えばエマ・ストーンはハリウッドで女優を目指して頑張る。だがその頑張りの動機は深く掘り下げられない。私が映画について不勉強なのは前に晒したので頓珍漢なことを書いてしまうのだが、例えば『マルホランド・ドライブ』のような作品では夢追い人の女優志望者の姿を(まだしも)リアルに描いていた。この映画では「ハリウッドの女優志望者はビンボーだよね」という如何にもステレオタイプ/安直な設定は描かれていても、それ以上の深みはない。ライアン・ゴズリングのジャズに対するこだわりも説得力を欠く。彼が「何故」ジャズマンとして夢を叶えるべく奮闘するのか、それが描かれていない。だからこの映画は(『セッション』以上に)薄っぺらい。

この映画では、主人公たちが従来の型に囚われないジャズをやろうと言ってコンピュータを大々的に取り入れた「モダン」なジャズを演奏する場面がある。だがその「モダン」なジャズがいざ形になってみればそれこそマーケティングされた凡庸で心になにも響かない、グルーヴもなにもない陳腐なシロモノとなる。その陳腐なジャズのあり方とこの映画はそっくりだ。テクノロジーを取り入れてミュージカル映画に新しい風を吹き込むつもりだったのかもしれないが、出来上がってみれば心になにも響かないミュージカル映画になってしまった。その意味で残念な出来だ。

もちろん、ミュージカル映画なのだから登場人物たちは生々しいドラマを演じるのではなく(甘ったるい)ファンタジーを演じなければならないのだろう。その意味で人物造形が浅くなること、表現が「嬉しければ笑う。笑っている時は嬉しい」と記号のようになってしまうことは必須なのかもしれない。だが、「今」そう言ったミュージカル映画をやるのであればこの映画は時代遅れとしか思われない。アンドリュー・ニコルシモーヌ』で人工的に作り出された女優の演技が何処までも人工的であったように、この映画の登場人物たちは古き良きスタイルを人工的になぞってはいても(その意味で質が高いのは認めるが)、「今」こんな映画を撮ることの「遅れ」(「ダサさ」、と言い換えても良い)に無自覚に過ぎる。

ミュージカル映画ではないが、人物の演技を徹底的に記号的に描く(何度も繰り返すが、嬉しい時に笑わせ、笑わせている時に嬉しいことを表現する「だけ」の)映画を私は否定しない。不勉強ながら例を挙げれば、例えば登場人物が叫ぶか呟くかしかしない中島哲也『告白』や、あるいは堤幸彦氏の撮るコメディ作品はそういうものだろう。だが、彼らの作品は撮り方において斬新さを目指していた。それが何処まで成功したものかは分からないが、ともあれ刺激的な試みをしていた。しかしこの映画では撮影技法上での実験(カメラワークや演出の遊びを「ネタ」としてやること)をしていない。輝く夜景もルームメイトの魅力も通り一遍で、生々しさがない。むろんそれを擁護することも可能だが、私は擁護出来ない。

良い面もある。色彩美の大胆さだ。赤い服を映した直後に緑色のものを配置させる(つまり補色の関係にあるものを敢えて置く)というあたりは挑戦的であるのかもしれない。それは認めよう。だが、それ以上の達成は示していない。黒澤明『夢』やデヴィッド・フィンチャーが達成したようなこちらを黙らせる映像美はこの映画にはついにお目に掛かれない。むろん、デミアン・チャゼルはキューブリックではなさそうなのでそんなことを求めること自体お門違いなのかもしれないが。

『セッション』もつまらない映画だったが、あの映画は文字通り「しごき」の生々しさ、リアリティがあった。汗の匂いがした。だからこそ生まれる凄味があった。それは認めるに吝かではない。だからこそこの映画ではチャゼル監督の悪い面がロコツに現れている。監督が何処までも音楽に熱愛を抱いていることは良く分かった。分かったが、この監督は音楽に恐らく愛されていない。これから化ける可能性があるとも思うのでそれを期待したいが、汗の匂いもなにもないジャズ(そんなものになんの魅力がある?)はつまらない。それはそしてこの映画にも言えることだ。これ以上は同じことの繰り返しになるから止めておこう。

監督の野心を認めるに吝かではない。それは確かだ。撮りように依ってはこの映画は面白く出来たはずだ(例えば全編アニメーションとして撮るとか、現実離れした設定を入れるとか、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のように歌唱を徹底してクオリティの高いものにするとか)。この作品はその意味で生煮えの駄作としか思えない。むろんこんな観方になったのは私が生真面目/スクエアな観衆だからなのかもしれない。前述した人工的で汗の匂いのしない陳腐なジャズがこの映画のあり方を自己言及的に語っているのかもしれないが(これは「好意的」な解釈である)、そうであってもその自らの陳腐さや人工的なところに対する「韜晦」がなにもない。分かりやすく言おうか。頭でっかちな映画だ。ハートがないのだ。

これ以上のことは『シェルブールの雨傘』などを観てから考えたいのだが、ともあれこの映画は古き良きミュージカル映画を現代に置き直したものではある。だが、そのようなレトロスペクティヴな試みに対する自己批判がない。通り一遍にミュージカル映画を復元してみました……以上のものがなにもない。この映画が「子どもじみた」映画だというのはそういう意味だ。大人も没入出来る映画とは思われない。まあ、このような私の解釈こそが「子どもじみた」ものであるとも判断出来ようが……褒めておられる方の真っ当な意見を聞きたい。時間の無駄だったとは言わない。クオリティが高いのは認める。だが、眠気覚ましに呑んだコーヒー一杯分のお金は確実に損したと思っている。