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踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

黒沢清『クリーピー 偽りの隣人』

VITALIZER

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お題「最近見た映画」

時間がないので(笑)。某所からのコピペ。黒沢清クリーピー 偽りの隣人』を観た。他にどうしようもないのでネタを割っている箇所もある。悪しからず。

クリーピー 偽りの隣人[DVD]

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冒頭の取り調べ室の場面が見る者を自然に『CURE』を想起させるように、この映画(俗に言う「イヤミス」だろう)にも黒沢清氏らしさはところどころ好調に顔を覗かせている。取り調べ室以外では廃墟、死体、拳銃、風になびく草木、クラゲといった要素がそういった「らしさ」を際立たせており、悪く言えば「自己模倣」とも受け取れる反面良く言えばそういった細部の生々しさがこの作品を『ゴーン・ガール』のような物語(『ゴーン・ガール』はあれはあれで傑作だと思うが)と似ても似つかない話にしていると思う。同じデヴィッド・フィンチャーで言えば、何故かカメラワークの遊び方に『パニック・ルーム』をも想起させられたのだった。

この話のキモは結局のところニーチェ的な(?)深淵を覗く者が深淵と化してしまうパラドックスなのではないかと思う。実際に『リアル 完全なる首長竜の日』がそうであったように(あるいはそれはそもそも『CURE』あたりから始まっていたのだろうか)、主人公は相手の狂気に触れる。魅せられたように/魅入られたかのように振る舞う。この物語ではしかし病んだ妻が介在することに依って『CURE』を変奏しているようで、だがしていないとも思う。『CURE』の二番煎じを撮らなかったあたりは流石、と言ったところか。

黒沢清氏の映画では西島秀俊氏が登場するとあっという間に空気が異質に変わる。浅野忠信氏とはまた違った形で、彼の持つ何処か幼さ/あどけなさが露呈することによって日常を非日常化させてしまうのだった。そういうことを言い出せばそもそも役所広司氏ともタッグを組んで見事な映画を撮ってこられたわけで、男優の扱い方は非常に巧い。逆に言えば、女優/女性の佇まいはこれまでの黒沢咲品同様どこかぎこちない。ひと言で言えば、女性を不器用にしか描けないのが黒沢氏の限界なのではないだろうか? ……いや、典型的な「女性たち」の物語であった『贖罪』を撮った監督でもある。だからこれは原作(私は未読)がそもそもそういう話だ、ということで終わるのかもしれない。

この映画は冒頭で丁寧にこの映画のテーマを提示している。つまり、サイコパス/連続殺人犯とはなにかを(時に言葉に出してあからさまに)語っているのだ。その意味では突き放したところもなく、『リアル 完全なる首長竜の日』がそうであったようにビギナーにも入りやすい作品なのではないか。もう少し撮影において冒険しても良かったのではないかとも思ってしまうのは、あるいはこないだ観た岩井俊二監督『リップヴァンウィンクル』の残滓がこちらに残っているからなのだろうか。

その親切さはしかし、エンターテイメントとして楽しめる域には(良い意味でも悪い意味でも)至っていない。この話の肝腎要な部分は夫婦愛のもつれと殺人犯との交友に依る癒しなのだと思うが、そのもつれが今ひとつ丁寧に描かれていないせいで中途半端な印象を受けるのだ。もっと描き込むか、あるいはそのあたりは(『トウキョウソナタ』がそれっぽいことをやっていたが)徹底的にステレオタイプな日常/風俗を描くことでこちらの「常識」に訴え掛けるか、処理のしようはあっただろう。そのあたりの不器用さも微笑ましいと言えば怒られるだろうか。

殺人犯が自分で手を下さず、それこそ『CURE』の間宮がヒーリングを施して自分の手を汚さずに殺人をさせ、それを「自由意志」と嘯くところもまた興味深いと思った。この映画において(も)殺人は、炎上を覚悟した上で書くがある種の再生の儀式なのだろうと思う。事実、殺人犯は最後に西島秀俊氏と竹内結子氏を絡めた疑似家族を作り出す(その作り出した疑似家族がどうなったかは映画をご覧いただきたい)。だからこの映画では殺人は何処か聖性を伴った――またしても炎上覚悟で書くが――崇高ささえ感じさせるもののように映るのだ。言わば神なき国でのラース・フォン・トリアー……と書くと冗談が過ぎると一笑に付されるだろうか。

この疑似家族の成立のおぞましさは、同じ黒沢清氏の映画で言えば『ニンゲン合格』にも似ている。『ニンゲン合格』の疑似家族がその後どうなったのかを思い出せばこの話のオチも分かるだろう。だが、そのオチのつけ方に何処か無理を感じるのは私だけだろうか。黒沢映画に据わりの良いエンディングを期待してはならないことは『降霊』や『LOFT』を観た人間として了解しているが、あのオチは結局主人公が「自由意志」を獲得し(直し)たということで良いのだろうか? 悲劇はまだまだ続くのではないか? それこそ『CURE』のように……安直なハッピーエンドもバッドエンドも提示しないところを誠実さと見做すか逃げと嗤うか。それは観衆に委ねられている。

香川照之氏の怪演については言うまでもないだろうから敢えて書かない(笑)。ただ、この映画でのサイコパスとしての香川照之氏の怪演は明らかに彼を世間一般的な「サイコパス」のイメージ(私だけかもしれないが、知能がイヤになるほど回る計算高い人物としての「サイコパス」のイメージ)をぶち破る、無邪気で幼児性の目立つキャラとして迫り出して来る。それもあってなのだろうか、主人公が何処までも凡庸な男でしかないこと(だからこそ、その「凡庸さ」が描かれているからこそラストの選択は輝く!)とそれは好対照を成している。

彼らは疑似家族を続けたまま次の家に行くのではないか? ミイラ取りがミイラになるように、主人公が……いや、これ以上は言うまい。ともあれ、据わりの悪い「イヤミス」として丁寧に、セオリー通りに成立している話だと思う。それがどんな欠点を内包しているかは既に書いたが、それでも流石は黒沢清、と言ってしまっても良いのではないだろうか。前半のかったるさは目を瞑って、後半の鬼気迫る一時間を刮目してご覧いただきたい。