踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

ニコラス・G・カー「引喩の本質はグーグルではない」を読んで

Eclectic

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お題「今日の出来事」

今日はニコラス・G・カー(以下「ニコラス・カー」と表記)の『ウェブに夢見るバカ』を少し読んだ。

ウェブに夢見るバカ ―ネットで頭がいっぱいの人のための96章―

ウェブに夢見るバカ ―ネットで頭がいっぱいの人のための96章―

 

それでとっても興味深い記事を読んだので、引用しようと思ったのだけれどいちいち本を開くのも面倒なので、ニコラス・カー自身のブログから引用することにする。

www.roughtype.com

In making an allusion, a writer (or a filmmaker, or a painter, or a composer) is not trying to “outwit” the reader (or viewer, or listener), as Kirsch suggests. Art is not a parlor game. Nor is the artist trying to create a secret elitist code that will alienate readers or viewers. An allusion, when well made, is a profound act of generosity through which an artist shares with the audience a deep emotional attachment with an earlier work or influence. If you see an allusion merely as something to be tracked down, to be Googled, you miss its point and its power. You murder to dissect. An allusion doesn’t become more generous when it’s “democratized”; it simply becomes less of an allusion. 

まあ要するにこういうことだ。アーティストは別に差別意識/選民意識に囚われて「引喩」(これは広い意味では「引用」、より語弊のある言い方で言えば「パクリ」を含むと思うが)を行うのではない。誰かに対して優越感を示したり、リスナーならリスナーを選別したりするために「引喩」を行うのではなくて、先行する偉大な作品に対する「感情的なアタッチメント」、つまり「深い愛」(と邦訳版では記されている)を示すのである、と。小沢健二氏が(彼を意地でも「オザケン」などとは呼びたくない!)フジロックに登場するとかそういうニュースを知ったことで、このことと頭の中で結びついて色々考えながら仕事をしてしまった。

ニコラス・カーの言い分ももっともではあるし、あるいはあまりにもセンシティヴに過ぎるという批判もあるだろう。ニコラス・カー自身は(邦訳本の記述やあるいはリンク先を見て貰えれば分かるように)なんでもかんでもグーグルでソースを調べて嬉しがる風潮に(も)冷水を浴びせているのだから、言葉尻を捉えるようなことをして遊びたくないのだけれどこの言葉を読んで自分自身の若い頃のことを思い出してしまった。小沢健二氏の音楽を聴いて「引喩」のネタ元を探したかと言えば探さなかったかな、という。何故なのかは分からないが、小沢健二氏の『犬は吠えるがキャラバンは進む』はそれこそ舐めるように聴いたのだけれど、あまり熱心に元ネタを探すことはなかった。

それについては過去にも書いたのだけれど(これも面倒臭いのでリンクはしませんw)、私があまり勉強熱心なタイプの人間ではないからなのか、怠惰だからなのかそのあたりは分からない。ただ、小沢健二氏がなにをどう愛したかということよりも(彼がどんな音楽に影響を受け、嫌な言い方をすれば「憑依」されたかということよりも)、私はその音楽を我流で表現してオリジナリティ溢れるものとしてアウトプットした小沢健二氏の音楽の方に魅力を感じるのだった。決してそこには選民意識はない。通だけが有難がるカルト(「オタク」と言った方が良いだろうか?)的な趣味はない。

フリッパーズ・ギター小沢健二氏が登場した後に雨後の筍のように登場したミュージシャンたちがしばしば(あるいは小沢氏も?)陥ってしまったように、選民意識や「分かる人には分かる」的符牒をばら撒いてリスナーを煙に巻く遊び心故の勇み足というものもあるのだろうから、ニコラス・カーはそのあたりピントがズレていることになる。あるいはニコラス・カーなら「そんなアーティストは恥ずべきだ!」と言うのだろうか。それはそれで興味深い。私はそんな意地悪さも遊び心も含めて偉大なアーティストはアーティストであり続けると思っている。このあたり意見は割れるだろう。

分かっている。元記事を読んでいただければ分かるようにニコラス・カーの批判の文脈はむしろ「なんでもかんでもググっちゃえば元ネタが分かっちゃう時代」に対する警告なのだ。そんなことをしていたずらに過去の作品の影響元がなにかを洗い直して遊ぶあまり、眼前にある例えば小沢健二氏の名曲「天使たちのシーン」それ自体を楽しめない、閉ざされた楽しみに浸ることを批判しているのだと。これ自体もニコラス・カーの言う通り。だが、あまりにも一般論的過ぎるし、たまたま今日小沢健二氏のニュースを知ったもので、つい「ネタ」にしてしまった次第。

イヤミというかケチというか、そういうもので終わってしまったけれどこの『ウェブに夢見るバカ』自体は(惜しむらくはタイトルのセンスが悪過ぎることだが)良い本だと思うので、私みたいに近頃のネットにうんざりしている人は読んでみて損はないと思われる。スマホを持つようになって私の生活がどう変わったのかについても書きたかったのだけれど、これはまた日を改めて……。