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宗教について

バニシング・ポイント

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トピック「宗教」について

例の出家云々については事情を知らないのでなんとも言えない。だから私の話(だけ)をする。私は今のところ無宗教なのだけれど、断酒会というところに通っている。これもある種の宗教、と言えば怒られるだろうか。怒られるのだとしたら、何故怒られるのだろうか。

ある特定のルールを作り上げて、それに従って生きる。それが私が考える「宗教」の定義である。ただこれではあまりにも曖昧過ぎるという意見もあろう。それを言い出したら無宗教のお前だって「人を殺してはならない」というルールに従って生きている時点で「宗教」を守っているではないか、と。

そうなのだ。人は本来自由である。これが炎上を招くことを覚悟で言えば、人を殺すことを止めることなんて出来ない。少なくとも言葉で説得することは私は不可能だと考える。私は人を殺さない方が殺す方よりも(嫌な言い方だが)コストが掛かるから殺さないだけだ。むろん良心が痛むというのもある。だが、良心が痛まない人間というのも居るのであろう。俗に言うサイコパスというやつである。それに対してはどのような対処が必要なのだろうか。

サイコパスまで話を持ち出すとややこしくなるので、宗教に絞ろう。出家云々はカルト/異端とされている宗教に彼女が身を投じたから起きたことなのだった。しかし、そもそもキリスト教仏教を信じること自体は異端ではない、と誰に言えるだろうか。キリスト教仏教も散々迫害されてそれでもなお信仰の根を深く下ろして行った。それだけの理由で人はキリスト教仏教を認めているのではないだろうか。つまりは伝統の問題である。そういう宗教はそれなりのコンフリクトを経て丸くなったから同居出来ている。それだけのことに過ぎないのではないだろうか。

それはそれとして、イ・チャンドン監督『シークレット・サンシャイン』を観た。

シークレット・サンシャイン [DVD]

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この映画では(ネタを割るが)誘拐に依って子どもを殺された母親がキリスト教に縋りつく場面が登場する。救済を求めてのことだろう。そして、心の平安を得た彼女は誘拐犯を許すことにする。しかし……おっと、ここからが面白いのでこれ以上書くのは控えよう。彼女のその後の暴走ぶりが凄まじい。一旦はのめり込んだ自分の信仰心を、神が見ているということを、彼女は疑う。それが、その救いのなさが例えばミヒャエル・ハネケ的なタッチで淡々とドキュメンタリーっぽく綴られるのである。この映画を観て、私は唸らされてしまった。心の平安を求めて宗教に縋る。それが何故行けないというのか。良くも悪くも考えさせられる。

この映画を観て、私は自分が自明だと思っていることが実は自明ではないかもしれないという感覚に囚われた。私自身は今のところ差し当たって無宗教である。ただ、断酒会の教えを守っている。これについて考えさせられたこともある。断酒会のルールに従い続けることが自分のためになるのかどうか……断酒会では一滴のお酒も禁じられるのだが(甘酒も粕汁もダメである)、別にお酒なんて呑みたければ呑んでも良いし断酒会なんて辞めたければ辞めても良いのである。それで法を破るのではないのだから。

前に書いたかもしれないが、断酒会関連で全国大会に二度行った。二度とも地獄を見て来た。良い意味でも悪い意味でもそうだ。人はどんな風にしてでも立ち直れるし、あるいは生きて行かなくちゃならない……橋口亮輔『恋人たち』や是枝裕和『海よりもまだ深く』が放っている問いに私もぶつかってしまったのだった。私は自分の頭で考えて決意した。お酒は呑んでも良いのだ。でも、呑まない。それは自分が決めたことなのだから責任を負わなくてはならないのだろう。

これも前にも書いたのだろうが、要はどのような宗教に入るかではなくて(日本的日常に順応する、というのもある種の「宗教」だろう)「自分の頭で考えたかどうか」「自分の行動で周囲が迷惑を被ることに責任を負えるか」が全てではないか。もちろん、個人が置かれている環境には制限がある。経済的に裕福ではない、交通の便が悪い、等など……しかしその限られた状況下において、自分が主体的に「この人生を選ぶ」と決めたのならなにを恥じる必要があるのだろう。むろん地下鉄サリン事件を許容しろなどとは言わない。異文化と共生するための知恵を絞らないと行けないのだろう。

話が曖昧になって来たのでこのあたりで切り上げるが、『シークレット・サンシャイン』自体は良い映画なのでご覧になってない方は是非観てみて下さい。