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踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

自信と主体性

創作のような日常
Kiss Me Kiss Me Kiss Me (Reis)

Kiss Me Kiss Me Kiss Me (Reis)

 

また発達障害とか私とかの話になる。許していただきたい。

ameblo.jp

この記事を興味深く読んだ。「『自分が、何を望んでいるのか』わからない」……まさに過去の自分のことのように思われたからだ。

私は他人から「自分に自信がなさそう」と言われ、何度も悩み苦しんだ。いや、悩んでいなかったのだけれど(「別に自分に自信なんてなくても良いではないか」とも思っていたのだけれど)あまりにも人から言われるのでそれで困っていたのだった。車谷長吉のエッセイだったかなにかで「車谷、お前はどうなりたいんだよ」と問い詰める登場人物の台詞が登場するが、まさにあの言葉は読んでいた当時の私に向かって放たれた言葉のようにも思われたのだ。「お前はどうなりたいんだよ」……そう言えば車谷長吉赤目四十八瀧心中未遂』も、内面が空虚な男の漂流譚なのだった。

この「自分に自信がなさそう」という原因を解き明かすべく何度も色々なことを考えた。それは幼少期の苛めに由来するのだろうか。それとも家庭環境故だろうか。発達障害だと分かってからも、「受動型」がこうした特徴を持つなんてことは知らなかった。まあ、無知は罪というやつなのだろう。私が「受動型」なのかどうかは医師と確認しないと分からないが、私自身が「お前はどうなりたいんだよ」という言葉に答えられずお酒に逃げて腐った生活を過ごしていたことはあながち無関係ではないのかもしれない。今度話してみるつもりで居る。

「自信がなさそう」というのと「主体性がない」というのに明確な関連があることが分かったのは今年になってからのこと。自分の人生を振り返ってみたら大学進学も就職も全て成り行き任せ。他人が敷いてくれたレールの上をただ走っているだけだった。いつの間にか周囲はそんなレールを敷いてくれなくなった。まあ当然のことで、だから巧く行かない現実に絶望して(勝手に無力感を抱いて)ヤケになってお酒に溺れたのだろう。これからの人生を、そんな風にして怠惰に過ごして来たことはやはり重い枷になる。自分の人生を生きるのは自分なのだから、と腹を括るしかない。

何故自分に自信がなくなったのかを、過去の体験にばかり求めていた自分はそもそも間違えていたのかもしれない。過去に他人に否定され続けて来たから……発達障害に理解のない教師やクラスメイトに酷い目に合わされたから、というような。そういう教師やクラスメイトを憎むことは出来ないでもないのだが、今更憎んだり嘆いたりしたところでなにか始まるといったことにはならない。忘却こそ最高の復讐というやつである。だから今をどう建設的に生きるかを考えているのだった。「お前はどうなりたい」のか、というようなことを。

そういうことを言い出せば私は「内面が空虚だ」と言われることもあるので、なんだか自分はブレット・イーストン・エリスアメリカン・サイコ』のパトリック・ベイトマンみたいな血も涙もない薄っぺらい人間のような気もしてしまった。それが正しいのかどうかは分からないが、あまり「自己分析」ばかりしていても仕方がないので(そういうことを言い出せば、それこそ車谷長吉カフカに自分を投影させることだって可能なのだから)、今後の生き延びるための策を合理的に練り直さければならない。そう思い、務めて自己分析的なことは止めてネガティヴな呟きも控えて本を読んだり映画を観たりしているところなのだった。

それもあってなんだか他人のこともどうでも良くなってしまった。あまりネット上で露出することに固執するのを控えるようになったのもこのせいだ……と書けばまた「自己分析」ではないか、と言われるかもしれない。まあ、好きに言って欲しい。私は私が正しいと思ったことを言うし、やる。トレンドな政治や社会問題について語ることは幾らでも出来るが、ネットで幾ら吠えても現実は動かない。私は黙って投票に行くし本を読む(本を読んだ結果は黙らないこともあるけれど……)。それだけのことだ。それで充分だ。

仕事だが、苦しいとか辛いとか泣き言ばかり言っていた(「ブラック」みたいに愚痴を零していたところだった)仕事が楽しくなって来た。前のめりに働くという姿勢がそうさせるのだろう。これについても長く書きたいのだけれどもう既に書いたことだし、改めて書くべきことでもなさそうなので保留。「男は黙ってサッポロビール」ではないけれど、与えられた持ち場で与えられたことをこなす。それで良いのではないかとも思う。それはそれで他人になんら迷惑を掛けていないことだと思うので批判される謂れはないと思うのだが、どうだろうか。