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踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

共感

創作のような日常

 

Mutemath

Mutemath

 

syakkin-dama.hatenablog.com

この記事を読んで、「共感」というものについて考えてみた。人と完全に「共感」することは可能なのかどうか。結局のところは私が相手の心を読んで(つまり「共感」して)動いているとしても、相手がどう受け取るかは本当に分からないのだから。発達障害者が幾ら知恵を絞って、これなら相手は「共感」するだろうと思ってやってみたところで相手のリアクションが必ずしも知恵を絞った通りに行かないかもしれない。その場合不測の事態に耐えられない発達障害者にとってはとても困ったことになる。むしろ(このあたり読み取れていないかもしれないが)相手にとっても自分にとってもウィン・ウィンになるロジックを組み立てた方が有益なのではないか、それをどう相手に伝えるか……私はそう思っている。その方が相手の「共感」を得やすいかもしれない。

ところで、「共感」ということであればそもそも私と誰かの間でそんなことが起こり得るのか、ということも考えられる。コミュニケーションにおいて「共感」を求めたがる人が多いというのは Twitter の人口の多くを日本人が占めているという事実が象徴しているのだけれど……あるいは又吉直樹『夜を乗り越える』で指摘されているような「共感」至上主義も気になるのだけれど、一方では「共感」する努力が必要になって来るのだろう。『雑談力』(これは読んだことがないのだけれど)があれだけ売れている世の中なのだから。

夜を乗り越える(小学館よしもと新書)

夜を乗り越える(小学館よしもと新書)

 

その一方で、コミュニケーションの自明性を疑うことだって出来る。たまたま雨宮処凛さんの『仔猫の肉球』という本をパラパラとめくっていたら、猫は理由や意味を求めずただ生きているから凄いというようなことが書かれていた。でもそれは本当にそうなのか。猫の無邪気な態度に人間が勝手に「共感」しているだけではないのかという理屈も成り立つ(このあたりもう先に出したブログの趣旨から外れるが、堪忍していただきたい)。幾ら探しても見つからなかったので例示出来ないが粉川哲夫+三田格『無縁のメディア』も同じようなことに言及されていた。

仔猫の肉球

仔猫の肉球

 
無縁のメディア 映画も政治も風俗も (ele-king books)

無縁のメディア 映画も政治も風俗も (ele-king books)

 

『無縁のメディア』はまた読み返すとして、「共感」というものは勝手に私の側が見出しているものなのであってそれはマボロシのようなものかもしれない。相手の真意なんて分からない。自分の真意でさえ柔軟に変わり得るのだから。その意味で「共感」が成り立つと信じて生きるのはむしろ危険なのではないかと思う。その一方で粉川哲夫氏のように人は(これも細かい論旨は忘れたが)「共感とかフィーリングの伝播」で動くのだという説もあるのでややこしい。まあ、ネットの炎上のように「共感とかフィーリングの伝播」が目立つという。

だから現時点での私の判断はなんとも言い難いのだけれど、多分人間というものは「共感とかフィーリングの伝播」で動いているところもあるのだろうけれど、それは別にロジックで説き伏せることも充分可能であって、ただ一時期宮台真司氏が反省しておられたようにロジックだけで人は動くわけではないことを踏まえて、良き交渉術と言うものを編み出す――ために必要となるのが「ロジック」と適度な「雑談力」となるが――努力が必要なのではないかな、とも思う。「共感」をベースにするとむしろ「私はこんなに歩み寄ったのに向こうは分かってくれない!」という理不尽さだけが残るのではないかと。

とまあ、ダラダラとなんの纏まりもなくミュートマスを聴きながら書いて来てしまった。発達障害と言っても人それぞれと言えばそれまでなので、借金玉さんの意見を否定するつもりもないのだ。ただ、私の場合はなんだかんだ言って「共感」することは上述した理由に依り諦めて、相手と自分との間でウィン・ウィンになれるべく知恵を絞っているとしか言いようがない。そこに感情という厄介な問題が絡むのではないかとも思うので、私の置かれている環境が甘いだけかもしれない……取り留めのない話になってしまった。