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踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

寺尾隆吉『ラテンアメリカ文学入門』

ザ・シャーラタンズ

ザ・シャーラタンズ

 

お題「読書感想文」

面白い本だと思った。これは本音である。だが、その面白さを説明するのはかなり難しい。ひと口で言えば、私は本書を「ラテンアメリカ文学」の「入門」書として読んだのではない。むしろある種の小説を読むように読んでしまったのだ。その意味で本書のタイトルは看板に偽りありなのではないかと思う。その理由をこれから説明して行こう。私は本をさほど読まないので、ラテンアメリカ文学に関してもコルタサルフエンテスの区別がつかないという情けない体たらくなのだけれど(ガブリエル・ガルシア=マルケス百年の孤独』すら読んでいない!)、本書はそんな情けない読者にも分かりやすくラテンアメリカ文学の歴史を紐解いてみせる。読みながらタメになるところは実に多かった。

ラテンアメリカ文学は 1960 年代から 1970 年代に掛けて爆発的なブームを巻き起こす。むろんその流れは日本文学にも大いなる影響を及ぼし大江健三郎中上健次筒井康隆といった作家がそういったムーヴメントに触発されたかのような作品を書いてしまった(このあたり、彼らが自覚していたかどうかは分からないがまさか読んでいなかったとは思えない)。しかし言うまでもないが、ラテンアメリカ文学は今に始まったものではない。その成り立ちを著者である寺尾隆吉氏は 19 世紀初頭の、ラテンアメリカが政治的に独立した時期にまで遡る。それまでも文学なるものはもちろんラテンアメリカに存在したが、独自性を誇るものではなかった(フランスやイギリス文学、スペインの古典文学が読まれていたのだという)。

上述した整理が暗に示すように、ラテンアメリカ文学は(まあ、どんな文学も多かれ少なかれそういうものだと思うが)政治と切っても切り離せないものだった。特権的な階級の嗜みとしての文学から、反体制派の政治的武器としての文学に至るまで幅広く。このあたりを詳述するとそれだけで二千字を超えそうなので止めておくが、ラテンアメリカとひと口に言ってもメキシコや南アメリカ大陸まで幅広い領域に跨る地域の文学を丸ごと語ることになっている本書はそのあたりのややこしい問題をかなりスマートに(悪く言えば「ざっくり」)整理している。各国の政治事情と文学のムーヴメントの関係が浮き彫りにされているのだ。

シュルレアリスムの流れから私たちが「魔術的リアリズム」と呼んでいるものが立ち上がる。そして私たちの知るラテンアメリカ文学が相貌を現すことになる。このあたりから本書は俄然面白くなって来る。ボルヘスやビオイ・カサーレス、フリオ・コルタサルフアン・ルルフォといった私でも名前を知っているほどのビッグネームが登場し始めるからだが、先述したように私はラテンアメリカ文学に関して無知なのでそれぞれの作家たちの作品が時系列順に整理されて、どの作家/作品がどのように影響を及ぼしたのかが分かったことは収穫だった。その意味では「入門」書としては素晴らしい出来であると言える。

だが、その面白さも中盤に差し掛かって来ると次第に変質して来る。それはラテンアメリカ文学が世界進出を果たす部分が詳述されているあたりからなのだけれど、大雑把に言ってしまえば各作家の代表作はもちろん網羅して語られる(マリオ・バルガス=リョサ――本書では「ジョサ」と綴られるが――の『都会と犬ども』やコルタサル『石蹴り遊び』などが触れられるのだけれど)。だが、それに加えてそういう作品群あるいは作家たちが他の作家たちをどのように意識していたのかという作家事情や出版事情がかなり突っ込んで綴られるからだ。こちらのゴシップに対する興味を掻き立てるような情報がかなり述べられる。

圧巻はラテンアメリカ文学の頂点に立ったと思われるガブリエル・ガルシア=マルケス百年の孤独』あたりをめぐる下りだろう。マルケスの『百年の孤独』に関しては未読なのでなんとも言いかねるが、ともあれ今でも読まれるに値する作品であることは著者も認めている。だが、マルケスが「ラテンアメリカ文学」という看板/レッテルをどのように「利用」したかまでもが綴られる。つまり、辺境に属する「ラテンアメリカ文学」の地域性故の西洋人――日本人も事情は同じだっただろうが――が抱く物珍しさを逆手に取って、自分たちの文学が如何に特殊であるかを誇示してみせた、というのが著者の整理である。

このあたりの作家たちの戦略や心理の揺れ動き、作家たちの生々しい人間関係がかなり突っ込んで語られる。本書が小説みたいというのはそういう意味である。あるいは過褒に響くかもしれないが、それはさながら大河ドラマを見ているかのようにさえ感じられるのである。そして作家たちの顔ぶれは現在も翻訳が刊行されているイサベル・アジェンデパウロ・コエーリョ、ロベルト・ボラーニョといった面々にまで至るのだけれど、彼らの文学に対する著者の辛辣さが賛否両論を呼び起こすことは想像に難くない。ボラーニョの小説に対して、いたずらにその作家名を(あるいは彼の文学の難解さを)有難がる風潮を厳しく指弾する。このあたり、読めていないのに難解さ故に作家のブランドを有難がる私には耳が痛かった。だが、「入門」書の体裁上例えばどうボラーニョの長編作品がダメなのかが詳述されない。このあたりは寺尾氏のボラーニョ論を読んでみたいところだ。

結論を纏めよう。本書は「入門」と銘打たれているし、最低限の情報は網羅されていると思う。いや、それどころか本書の整理はかなり鮮やかである(悪く言えば単純化され過ぎている)。だが、上述した作家たちと政治(それは「文壇政治」でも良いし、カストロとの交流に触れられるリアルの政治でも良いのだが)との関わりがそれ以上に突っ込んで語られ、また各著者に対する辛辣な評価も下されることに依って著者のバイアス/偏見がかなり掛けられた一冊となっている。本書を読んで、実際に読みもせずにボラーニョを語るのは逆に危険だろう。私自身矛盾するようだが、著者が相対的に高く評価しているボラーニョの『はるかな星』を読んでみたいと思わされた。また、マルケスリョサがその人間臭さにおいて身近に感じられたのも確かである(特にふたりの訣別を描いた「パンチ事件」は知らなかった!)。

その意味ではラテンアメリカ文学を身近に感じさせる一冊ではあるのだろう。だが、「入門」書としてはどうか? そのあたり、私自身は先述したように浅学を恥じる身なので読者諸賢(特に、寺尾氏が痛烈に批判しているボラーニョ『2666』を傑作だと評価している方々!)の判断に委ねたい。とまあ、最後まで無教養を晒してしまったが、これで〆ることにしよう。