踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

こんな風に書きたい

FENIX

FENIX

 

東雅夫氏が編まれた内田百閒/百鬼園先生のアンソロジー『百鬼園百物語』を読んだ。

www.honzuki.jp

百閒の小説は好きなのだけれど百鬼園先生の随筆にはピンと来なかったというのはリンク先の駄文でも書いた通りである。世評の高い『百鬼園随筆』を読んでも今ひとつピンと来ない。『阿房列車』も途中で挫折したし……そんなわけで百閒/百鬼園先生に関しては今のところ小説しか読めていないのが正直な有様なのであった。これは今後加齢/老化を経ることに依って妙味が分かるようになるという類のものであるのかもしれない。だから現段階ではなんとも言いかねる。またいずれ読み返しを図ろうと思っているところなのだった。

百間の小説を読んでいると、身の程知らずな欲望が湧き起こって来る。それは「自分も百閒の小説のようなものを書いてみたい」というものである。言うまでもなく漱石門下でドイツ語の素養もあった百閒と私とは比べ物にならないだろう。それでも、私は百間のように書きたいという欲望を抑え切れずについつい真似事みたいなことをしてしまうのである。今続けている「日常のような創作」も、元はと言えば百間を年末年始に読んでいたことが原因となって始まったようなものなのだから原点はそこにある。百間のように書きたいのだった。

冥途・旅順入城式 (岩波文庫)

冥途・旅順入城式 (岩波文庫)

 
東京日記 他六篇 (岩波文庫)

東京日記 他六篇 (岩波文庫)

 

百閒とはテイストが似ていないかもしれないが、「このように書いてみたい」と思わせられる作家としては例えば佐藤哲也氏の『ぬかるんでから』が挙げられる。この本に関しては私は感想文を書いた。紛れもない秀作であると感じられた。無論、技巧を凝らした佐藤哲也氏の小説と比べれば自分の書いているものなどたかが知れていよう。だが、それでも「このように書いてみたい」という願望は捨て切れないでいるのだった。こればかりは仕方がない。傲岸不遜と言われればそれまでなのだけれど、今回読み返して自分の創作に活かせそうなことをそれなりに学んだ気がする。

www.honzuki.jp

他に、これは内田百閒と比べるのはもう無理があるかもしれないが吉田知子氏の短編からも学べるところは多いのではないかと思っている。これについても感想文を書いた。

www.honzuki.jp

吉田知子氏の『お供え』のような良く出来た短編を読んでしまうと、どうしても自分もこのようなものを書いてみたいという誘惑に抗うことが出来ない。そのあたり厄介である。これもまた傲岸不遜というやつであろう。ただ、憧れのひとつくらいは抱いておいても良いのではないか。模倣や猿真似はもちろん出来ないが、自分には書けないだろうけれど自分にとっての短編の理想形として「お供え」「箱の夫」を念頭に置いておくことは決して罰当たりな行為ではあるまい。そう信じているのだけれどどうだろうか。私としてはそう願いたいのだけれど。

あるいは、もう百閒から離れてしまうのだけれどバリー・ユアグローの短編のようなものを書いてみたいと思うこともあるのだった。私のネタ本の内のひとつと言っても過言ではない『一人の男が飛行機から飛び降りる』の一編のような短編を是非書いてみたいと。

一人の男が飛行機から飛び降りる

一人の男が飛行機から飛び降りる

 

バリー・ユアグローの小説は読み返してみないと分からない部分も多々あるのだけれど、即物的な文体でシュールとしか言いようのない世界を巧く切り取っていると思われる。私はその世界に対する書き手/語り手の冷徹な筆致を参考にさせていただきたいと思っているのだった。

あととぼけた味わいというのであれば、岸本佐知子氏のエッセイも忘れ難い。彼女にも百間に通じる要素を感じる。

www.honzuki.jp

岸本佐知子氏の近年のエッセイの達成は最早小説を書いているかのようで、岸本氏の書く本格的な「小説」を是非読みたいと思っているところなのだった。川上弘美氏の魅力は私には良く合わないようなのだけれど、岸本佐知子氏の筆致に依る「小説」なら読めるのではないかと思っている。これもまた傲岸不遜だろうか。ただまあ、志は高く持っていて損はないのだと思うので、こうした作家たちの書くものから多くを学んで行きたいと考えている。