踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

無人

Ae [Analog]

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「そうですね。これは良くないことなんだけれど」とその方は切り出した。「僕はデパートのトイレの中で本を読む癖があるんです」と。

その日もデパートのトイレで本を読んだのだという。買った稲垣足穂の『ヰタ・マキニカリス』だった。飽きるとスマホを眺めていたという。どれくらい経っただろう。そっと外に出てみた。なにかが可怪しい、とその方は思ったという。

「人が全然居ないんです」

お客さんは元より、店員も警備員も誰も居ないのだという。妙な話もあるものだ。本屋に改めて行ってみるも、本当に誰も居ない。

「あとから考えるとどうかしてたと思うんだけれど……監視カメラとかそういうのがあるから。でも、バレなければ良いかなと思って」

村上春樹の『象の消滅』を無断で持って帰ったのだという。いや、適切な言葉を使えば万引きしたというのが正確かもしれない。

「だから、この話は身バレが困るんで内緒でお願いします」

そしてその晩はカバンの中に『象の消滅』と『ヰタ・マキニカリス』を入れたまま家に帰り、夕食を済ませて床に就いたという。

「それまでは特に異常事態は起こってなかったんですけれど……」

次の日になり、ネットの新聞記事を読んで驚いたという。そのデパート内で火災が起こったというのだ。死傷者こそ居なかったものの、結構大規模な火事だった。

「その火事が起こった時間帯というのが……僕がデパートの中で本を読んでいた時間帯だったんです」

でも、彼は店内に居れば当然聞くだろう店内アナウンスや、お客さんが逃げ惑う足音、嬌声などは聞いていない。殺気立った気配を感じたわけでもないという。彼自身もちろん火傷を負ったとかそんなことは体験していない。

「不思議なこともあるもんだ、と思って僕はカバンの中の本を探したんですけれど」

彼は驚いた。

「カバンの中の『象の消滅』が、灰になっていたんです」

その一冊だけが灰になっていただけで、隣に置いてあった『ヰタ・マキニカリス』は灰になっていない。だからカバンの中で火がついたとかそんなことではないらしい。

「やっぱり……悪銭身につかずって奴ですね」

そう言って彼は笑った。