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踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

ピアノ教室

Infinite Spaces

Infinite Spaces

 

私はピアノを習うことにした。それで近所のピアノ教室を検索してみた。ちょうど月謝も安くて良い先生が居るとのことなので、その教室を見学してみることにした。

教室を営んでいる先生はニコニコしながら私を出迎えてくれた。年は私とそう変わらないのだろう。いきなりピアノに触るのではなく、まずは世間話からということでお互いコーヒーを飲みながら色々なことを話した。

「音大に入ってピアニストになりたかったんです」と先生は仰られた。「でも、指に怪我をしてしまったので諦めました」

そうなのか、と私は思い先生の指を眺めてみた。傷跡は見当たらない。まあ、よくある話なのだろう。私は自分が断酒中であることを話すと、凄いと褒められた。

「とても出来るものじゃありませんわ」

「そうでもないですよ。一旦止めてしまえばラクなものです。止めるまでの踏ん切りをつけるのが大変でしたけどね。お酒を止めたおかげで今はポジティヴに物事を考えられるようになりました。こうやってピアノを習いたいなと思うようになったのもその現れだと思います」

そういう話をし終えたあと、私は実際に先生の持っているピアノを触らせてもらうことにした。先生はまず、教室の真ん中に置かれていたグランドピアノを撫でた。「よしよし」と先生は言った。

「ピアノを撫でるのってなにか意味があるんですか?」と私は訊いた。

「この子、知らない人にはなかなか懐かないんです。だから気をつけて下さい」

先生がそう言うと、ピアノは自動的に口を開いた。鍵盤が八十八鍵揃っている。私が試しに「ねこふんじゃった」でも弾いてみようかと思うと、不意にピアノの口がバタンと音を立てて閉まった。先生はもちろん触っていない。ピアノが唸り声を上げた。巨大な身体を震わせて、轟々と音を立ててこちらを威嚇する。先生はピアノをピシャリと叩いた。

先生は言った。「躾はしているんですけれど……どうやら貴方に懐くまでには時間が掛かりそうですね。本当は優しくて良い子なんですよ」

そう言って先生がピアノを撫でると、また口を開いた。さっきまでの勢いは何処へやら。先生に身体を擦り寄せんばかりに懐いている。先生が指を怪我した理由もなんとなく分かった気がした。ピアノとは私が考えている以上に奥が深いものなのだ。

結局その日はピアノに私は触れられず、先生が弾くドビュッシー「月の光」やエリック・サティ「三つのジムノペディ」(私は無教養なので、ピアノの代表曲はこのふたつしか知らないのだ)を聴くだけで終わってしまった。

私はピアノを諦めることにした。