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踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

Dear, 1984年の僕

the very best of b-flower

the very best of b-flower

 

そろそろだな、と思い僕は過去の自分に向けて手紙を書くことにした。迷ったが 1984 年の自分が一番相応しいのではないかと思った。ちょうど村上春樹の『1Q84』を読んでいたことも大きかったのかもしれない。

1984 年の僕は当然のことながら 2017 年の僕のことなど知る由もない。僕が送ったはずの 2017 年からの手紙も開封したことがないようだ。手紙が届いたということは漠然と覚えているが、記憶はあやふやだ。

開封していたらもちろん僕は全く違った人生を送っていたことだろう。もっと金持ちになり、あるいはもっと不幸になる人生だってあり得たはずだ。僕の両親がそれを懸念して僕が読んでしまう前にこっそり捨てたのかもしれない。

ならば僕が手紙を送るのもどうせ 1984 年の僕の両親に破られてしまうのがオチで無駄骨なのだろうが、やはり未来を生きる僕として過去の僕にけじめをつけなくてはならないのだろう。

僕は僕が目撃した二つの震災のことについて書いた。初めて生まれた黒人の大統領のことを書いた。世界貿易センタービルに飛行機が突っ込んでいった悲劇について書いた。

そんなものを九歳になる当時の僕が読んで理解出来るとも思えないし、理解したとしても悲しみしか溢れては来ないだろう。しかし、繰り返すが僕は未来に生きるものとしてけじめをつけなければいけないのだ。

だとしたら大人としてそんな残酷なこの世の成り立ちというものを教えなければならない責任があるように思われた。

また、万が一過去の僕がある偶然で僕の手紙を読んだことで世界の運命を変えることになるのだとしたら、という淡い希望もどこかに残していた。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の主人公のように。

ざっと便箋四枚にひと通りのことを書いてそれを封筒に入れ、封をして近所のセブン・イレブンのポストにそれを投函した。

帰り道 1984 年の僕のことを考えた。いい時代だった。ファミコンソフトの『ゼビウス』が発売された年で、そればかりひたすらプレイし続けていた。十万点を取れるところまでいったのではないだろうか。よく覚えていない。

家に戻ると 2030 年の僕からの手紙が届いていたが読む気になれずに捨ててしまった。そうか、過去の僕も同じように読む気がなく捨ててしまったのかもしれない、とふと考えた。