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踊る猫の生活

創作のような日常/日常のような創作

宮台真司『正義から享楽へ 映画は近代の幻を暴く』

正義から享楽へ-映画は近代の幻を暴く-

正義から享楽へ-映画は近代の幻を暴く-

 

読んでいて辛くなってしまった。それは別段本書の内容が難解過ぎて手に負えないからというのではない。むしろいつもの氏らしい「べらんめえ口調」は健在で、ここ数年氏の著作に触れていなかった私自身にも大いに刺激されるところが大きかった。映画を観たい、そんな気になったのは確かだ。だから問題は本書が語らんとすることはなにか、ということに尽きる。ひと口で言えば本書は宮台氏言うところの「クソ社会」をどう生き抜いて行くか、という話に尽きる。もうひとつ挙げるならクリントン対トランプの事例を引いて、「正義から享楽へ」という姿勢が重視される。だが先走る前に本書の内容をお浚いしておこうと思う。

本書は 2015 年から 2016 年に掛けて宮台氏が自分で観て考えた事柄を、しかし良くあるシネフィルとしての批評は禁欲して「実存批評」に徹して語った書物、ということになる。「実存批評」とはなにか。ひと口で言えば映画が「クソ社会」ではなくその外側にある豊穣な「世界」をどう捉えているかに着目した批評であると言えるだろう。「社会」は「クソ」だと宮台氏は何度も力説する。どういう原因があるか、という問題ではなく(問題が解決すれば「社会」は「クソ」ではなくなるという話ではなく)「社会」それ自体を巧く生き(られ)ることを目指すこと自体が病んでいるという認識からこの本は始められるのだった。社会に対してベタに適応出来るのならそれはそれで良いのだろうが、そうでない人間は(氏からすれば適応出来なくて当たり前ということになるのだろうが)ではどうしたら良いのか。

この場合、過剰に「社会」に適応しようと足掻く必要はないと氏なら説くだろう。「社会」において病むのであれば、その病を否定したりせず病みつつ生きることを目指そうとするスタンスが必要とされる。人はどうしたって「クソ社会」を苦しみながら生きざるを得ない……この前提が確固として揺るがないところが本書の興味深いところである。私自身「社会」において生きづらいと思ったことは何度もあるが、それは私の側に問題があるのだと思っていた。宮台氏はそんな立場は採らない。「社会」の外部にある「世界」という豊穣な空間があって、「社会」はそんな「世界」の中に偶発的に出来たコミュニティに過ぎない。「社会」が自明としていることなんて、実は自明ではないのだ。「世界」は元々デタラメなんだ……ということが本書では語られる。

肝腎の本の中身がまだだった。本書では例えば岩井俊二リップヴァンウィンクルの花嫁』や黒沢清クリーピー 偽りの隣人』『岸辺の旅』、あるいは『野火』『恋人たち』『バケモノの子』『シン・ゴジラ』といった時代を代表する作品について語られる。先述したように、映画に関して(も)通である宮台氏はしかしありがちな映画への愛を敢えて断念して、社会学的なアプローチやカントのような哲学者、あるいはフロイトラカンといった精神分析を引き合いに出して映画を語り尽くす。ここまで勉強しているとは流石は宮台真司氏だな……と思わさせざるを得ない。社会学から始まって、(政治)哲学、そしてラカン。どんなジャンルの知識も貪欲に吸収して今がある。むろんこの一冊だけでラカンならラカンを分かった気になるのは危険だろう。宮台氏を通して見たラカン、と割り切る必要がある。

本書で挙げられている映画の内観ていた映画はごく僅かで、岩井俊二リップヴァンウィンクルの花嫁』や黒沢清作品など程度だった。この映画評論集ではネタを割ることを厭わない方針なので、気になる映画があるのであればその映画の部分に関して読まないという選択も可能であるだろう。私は通読してしまったのだけれど、特に損をしたという気にならなかった。映画ではなく、映画を成り立たせている理屈について語ること。それが良かれ悪しかれこの本の可能性であり限界でもある。だから先述したことと相反するが、この本はスクリーンに人を誘う本ではないかもしれない。それは読んで判断していただきたい。むろん、私の評価と宮台氏の評価が食い違っていたというのもあるので、まずは気になるところを拾い読みしてみて欲しい(私は『リップヴァンウィンクルの花嫁』をそこまで優れた作品とは思わないのだが、批評自体は極めて興味深かった)。

そしてタイトルだ。アメリカのクリントン対トランプという大統領選は日本にも激震をもたらしたのだけれど、宮台氏は現象を(かなり単純化するが)次のように捉えている。正しいだけでつまらない「リベラル」(=「正義」)から、気持ち良いことを問題があってもやってしまおうというスタンス(=「享楽」)へ。それは日本の社会運動にも当てはまることだ。クソ真面目に苦行として社会運動を行うのではなく、何処まで「クソ社会」の中で楽しく運動を行うことが出来るか。その「享楽」を忘れてしまっては「リベラル」は勝てないと氏は語る。真面目過ぎるのが良くない、もっと遊ぼう、というのが骨子となる。

だが、とここで思わざるを得ない。宮台氏は運動が自己満足で終わることをそもそも批判していたのではないか。独り善がりな「表出」からアクチュアルな「表現」へ。宮台氏はそのように一貫して釘を差していたはずだ。その「釘」がこの本には見当たらない。それは「表出」と「表現」の相違がどうでも良くなったことを意味しはしないだろう。そのあたりも踏み込んだ批評がなされていれば本書はグッと役立つ――上野俊哉氏風にいえば「街路に持ち込む」というやつだ――一冊になったのではないかとも思う。本書を読まれる際には過去の宮台氏の本も併せて読むことを薦めたい。むろん、この一冊だけでも充分過ぎるほど刺激的なのだけれど。

そのような問題こそあれ、本書が(例えば『シン・ゴジラ』がソフト化されて出回る昨今に)読まれること自体は極めて重要であると感じられる。本書は私のように社会に適合出来ず辛い思いをしている人に取ってはある種の処方箋とはなるだろう。宮台氏はそんな読まれ方を嫌うかもしれないが、一人の「メンヘラ」として本書で展開されているロジックは自分を「社会はそれ自体『クソ』なのだから仕方がない」と絶望の淵に追いやり、かつ「そんな社会では『なりすま』すことでしか生きて行けない」という励ましを貰ったような気がした。そんなに親切で丁寧な書物とは思われないかもしれないが、理路を辿って行けば必ず腑に落ちるところはあるはずだ。それをどう探るかが読者に求められている。